気嵐か冬霞か

気嵐のはれてダイヤの復さざる

早朝大和川に沿って深い霧が流れている。

水温と気温の差が生んだ霧だろうが、北日本でよく冷え込んだ朝に見られる「気嵐(けあらし)」とはちょっと違うようだ。
というのは、この火曜日に発生した大和川の霧は、逆に朝の大気の温度が水温より高かったからだ。だから、単なる「冬霞」というべきか。
日が昇りしばらくすると霽れていくが、朝のダイヤの乱れはまだ解消されてはいない。

冬日のしとね

傾きし日ざししとねに冬の蝶

冬至も近くなると真昼でも日差しは低い。

そんな弱い日差しでも風さえなければ柔らかく暖かい。冷たい石垣だってずっと日の恵みを受けると温かいものになる。
いつもの散歩コースにいる黒猫ちゃんも、天気がよくて風がない日は石積みのフェンスに日向ぼっこしていることが多い。
蝶だって同じようであるらしい。豹紋蝶の仲間が、翅を広げたまま身じろぎもしないで石垣にいる。いくぶん暖冬気味だからまだ生きていられるのだろうが、越冬はさすがに難しいのではないだろうか。

二十度越え

傘開く間もなく去りし時雨かな

天気が心配だった今日の吟行。

句会終了まで汗かくくらいの陽気な天気に恵まれた。
途中木の間よりぱらぱら雨が落ちてきたが、傘を開くまでもなくあっけなく立ち去ってくれた。
風鎮めの神らしく龍田の大神は穏やかな日和を恵んでくれて、風もないので紅葉の散るゆくさまは見られず、境内をふわふわ綿虫が飛んでいる。

綿虫や龍田峠の越えがたく

龍田古道は、風もないのに銀杏がはらはら散るばかりであった。

蓑虫の萩衣

枯れ枯れて萩は乱れの糸とかず

咲ききった萩が枯れている。

乱れた枝が枯れるとそのまま糸のように細くなって、まるでこんがらがった糸のように見えてくる。
よく見ると、いくつかの株には絵に描いたように蓑虫がぶら下がっている。まさに蓑虫の萩衣である。
いつ、どんな条件がそろえば顔を出して冒険の旅に出るのか、それは分からないが、小春日が続くような日並みには目撃できるかもしれない。

福音

持山に笹子すみなす旧家かな

このあたりの旧家の前山の紅葉が素晴らしい。

目前に朝に夕に目紅葉山を独り占めして眺められるのだから、最高のぜいたくというものだろう。
今日は町内の坂をぶらり散歩していたら、笹子がその前山の藪を渉っていた。当然屋敷の人たちも毎日その声を間近に聞いているにちがいない。
まさに風流を絵に描いたような暮らしだが、そんなものとは縁遠い暮らしのものには、たまに横を通らせてもらいちょっとだけ耳を喜ばせることがささやかな福音である。

熟したか

山茱萸の粒の光りの魚卵めく

これから年を越えてもしばらくは山茱萸の実を楽しめる。

鳥たちが手を出すのはもう春に近くなってからなので、いまは全く熟してはいないのだと思う。
実際に囓ってみればすぐ分かることだが、何となく青臭い味、匂いが口の中に残るような気がして手が出せないでいる。
すでにいくつかは道にも落ちているので、今年は意外に熟すのが早い気もするが、もう少し待ってみようと思う。

ケーキの道

犬四手の黄色塗せる落葉道

林の一画が明るい。

犬四手の薄い葉が黄葉して光りをよく通すし、幹の周りに散り敷いた落葉がまた明るい黄色で、そこだけ地面から浮き上がるように存在を教えている。
茶色がかった他の雑木の落ち葉に振りかかるようにして散った黄色は、まるでチョコレートケーキにマロンの欠片をまぶしたようにも見えてくる。遠目にもモンブランケーキのようで、そんなことを考えながら散歩していると様々な色した楓の敷く道は何と言うケーキに似ているだろうかと考えるのだが、なかなか思いつかないのだった。