冬の黄砂

上棟のクレーン突き上ぐ冬の空

住宅街の一画に見馴れぬ車の列。

上棟の応援に駆けつけた大工さんたちの車だろう。
今日は屋根の板まで葺いていたから昨日からつづく作業だったのだと思われる。
菜園にいつも車でやって来る人が、慣れぬ場所で駐車しようとして側溝に前輪を脱輪するというアクシデント発生。大声で応援を頼まれたので通りがかりの人にも頼んで、「せいのー」で一発で脱出。さいわいFF車でよかった。後輪駆動なら太い丸太でもなければ難しいところだった。
冬とはいえ、遠くが霞んで見える。この時期の黄砂のようである。明日も黄砂予報が出ている。

朝の運動

一度では点かぬ燭台今朝寒し

畳、座布団まで冷たくなってきた。

おまけにマッチならぬライターの点きも悪くて、ひねる指まで冷たくなる。
暖房の入った部屋との温度差で仏壇の置かれた部屋はよけいに寒いのである。7時を過ぎないと日が昇らない部屋は芯まで冷えている。
声を出せば少しはましかと声量を上げてみるのだが、やはり覚束ない。冷房の時期ではないので声はよく出るのだが、その程度では暖まらないのだろう。
この後、部屋の掃除を終わる頃になってようやく少し温まる。これが夏だと大汗をかいてしまうのだが冬にはちょうどいい運動である。

威圧

見上げれば見下ろし返す枯木山

ついこの間まで見事な雑木紅葉を誇っていた。

それがずんずんと色を失って、夕まづめには黒い塊のような厳しさを見せている。
無駄を削いだ山の美しさが目の前にある。
第一歩を踏み出すたび目に入るその山にはすべてをお見通しであるような威圧さえ感じるのであるが。
今日は昨日とうって変わって信貴颪もなく穏やかな日だけにかえって無言の圧をもって迫られるようである。

健やか

鍵つ子は鍵つ子どうし日短

学童保育から帰宅する頃辺りはすっかり暗くなっている。

父母が帰ってくるまでにはまだ間がある。これが夏だと遅くまで公園などで遊ぶこともできるが、冬ともなると寒くて暗いので外では遊ぶことが難しくなる。
隣家の二年生も父母の帰宅までお互い留守の家を訪ね合ったりして時間をつぶしているようだが、やはり気になるものでときどき家の灯りを見るともなくチェックしている。六時になっても灯らないこともあって何もなければと願うばかりである。
さいわい、友だちは多いようで、自宅の駐車場に何台かの子供用自転車が停まっているのをみると健やかに関係を築いているように思えるのが救いである。

10t車

起重機の砂底浚ふ冬の川

ダンプカーの出入りが多い。

ここは毎年大水が出るたびに氾濫するエリアである。
堤防のかさ上げ工事が何年もつづいているが、それでも毎年数回は警報が出るところだ。
その川はいましも水量の少ない時期を狙ってか、川底を浚っているようだ。
ダンプカーが一度に運べる量なんてたかが知れていて、一日中行き来していても目に見えて砂が減っているようでもないし、これは相当時間がかかるようである。

水っ洟

寒風に水抜きの溝掘りもして

今日は風の冷たい一日だった。

日が当たっているうちはまだよかったが、午後から陰るともういけない。体を動かさなきゃということでスコップで溝掘りである。
冬の間に雨水が溜まりがちな菜園の水捌け改良の土木工事である。
もとよりブルドーザーもトラクターもないので、人力を賴りの作業である。
しかし、その程度ではなかなか体は温まってこない。水っ洟をたらしつつ一時間ほど粘ったがもう限界で切り上げることにした。殘りは天気のいい日にしよう。

断捨離

極月のシニアクラブに誘はるる

今さら群れようとは思わない。

今月も団地のシニアクラブへの参加をうながす回覧板が来た。何をするわけでもないが、毎週の百歳体操、そして12月は忘年会を兼ねた餅搗きと夜廻り。それはそれで楽しいのだろうが、長い間暮らした東京を捨て、つまりこある意味ではれまでの人生を捨てて当地に終の住処を求めたのだからもうややこしい人付き合いは御免だ。何時死ぬとも知れぬ年寄りどうし、人生のどん詰まりにいる者が群れてこのさき何かいいことあるだろうか。
菜園などでたまに若い世代と交わることのほうがよっぽど刺激をもらえて楽しい。
歳相応の断捨離というものは何も物だけにかぎったことではない。