願い下げ

秋暑く医院の駐車場せまし

今日は温度計に現れぬ残暑だ。

湿度こそ70%に届かないものの、朝から室内温度が30度を越えるようでは、少し体を動かしただけで汗がしたたる。
週間予報でも35度前後の日が続くと言うから、もうこれは関東に住んでいた時とはまるで違う気候だと言っていい。
西日本は残暑、東、北日本は日照不足というから、温暖化とは、なるほど、天候というものが極端に走るということらしい。
ということは、冬には極端な寒さがあるかもしれないということだが、どれもこれも願い下げにしたいものだ。

旧暦未だ水無月

流星の眼窩に沈む一雫

天川村では、さぞや此処らは星がきれいだろうなと思った。

天河神社にきて、「天の河七夕まつり」という幟を見たら、ますますその感が強くなる。
山に仕切られた空には天の川が流れ、それを仰いでいるわずかな時間にも流れ星がいくつも見えるのではないか。
この数日、幾分秋めいてきた兆しもあり、さらに空気が乾いてくれば空の高さも感じられるだろうか。

本日室内31度(外気はおそらく34度?)、湿度60%。この28日が旧暦7月7日になるそうだが、はたして星祭できる条件が整うだろうか。

無制限

ごろごろと湧く水汲んで涼新た

三日連続でごろごろ水関連。

たしかに美味しい。

二日間ですでに10リットル飲んだ。
家人は紅茶党でコーヒーはあまり飲まないが、この水で沸かしたコーヒーは甘くて柔らかくて飲みやすいと気に入ったようである。
家にあるボトル総動員して80リットル汲んできたが、汲み置き用のボトルを増やしておけばよかった。何故なら、時間無制限の汲み放題という仕組みだからである。
以前は、タイマーが切れるたびに100円硬貨を放り込む仕組みだったのが、3年ほど前から駐車料金という名目の500円払えば、駐車ロット別の蛇口を好きなだけ占領できる。
隣のロットには軽トラ荷台いっぱいにタンクを並べ、持参したホースで効率的に汲んでいる御仁も。終わると、当然のように後ろに大きく傾いたかたちで、のろのろと出て行った。

山の土産

飛ぶやうに売れて深山の新豆腐

水のうまいところにはうまい酒とうまい豆腐がある。

洞川の場合は、酒こそないが、そのうまい水自体が「名水ごろごろ水」として売られ土産にもなっている。
名水、豆腐、陀羅尼助の三大土産が洞川の代名詞とも。
豆腐は午前中の早いうちに売り切れたようで、持ち帰ることはかなわなかった。

標高800メートル

百選の水にさめたる西瓜かな

天川村洞川は大峯登山口として修行者宿で知られるが、近くには日本百選の名水「ごろごろ水」がある。

鍾乳洞から流れ出てくる水が鳴る音から名づけられたらしく、大峯山系にしみこんだ雨が地中に湧きだして水量は豊富だ。
その水汲みを兼ねて日帰り温泉を浴びてきた。
洞川は胃腸にいいとされる陀羅尼助の発祥地である。行者宿が並ぶ通りに、修行者が買い求めたりお土産用としていくつもの店が今も営業中。そんな通りに写真のように、豊富な山の水をかけ流して西瓜を冷やす光景も見られた。

帰途、天河神社があると聞いて立ち寄ってみたところ、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする大峯奥社ともゆかりある神社だった。市杵島姫命は弁財天ともされ、芸能の神さまでもあり、拝殿に向かって立派な能舞台があってその間を吹きぬく風が涼しくて心地いいこと。

標高800メートルから一気に下った盆地の気温は36度。まだまだ奈良は暑い。

山国の盆踊り

山国の市史に記録の踊唄
中入れに老幼寝につく盆踊
中入れに輪の小さくなり盆踊
目配せに輪から抜け出し盆踊

深夜12時頃に中入れがある。

青年団が接待役で、長老などにお握りを作ったり、酒を注いだり。また、初盆の家々を踊り回る。
これが終わると、子供の時間は終わりで、夜明け近くまで山国の踊り唄が山間にこだまする。
この踊り唄は集落に昔から唄われてきたもので、何人かの音頭取りが交代しながら次々と続いてゆく。どんな内容だったか全く思い出せないので、熊野在住の方にお聞きしたら市史に記録されているもののコピーを送ってくださった。
盆踊りを行うには準備にも多くの人手も必要だし、その担い手も減ったとあっては盆踊りの継続も難しくなっているのではないか。もしかすれば、踊り唄を継ぐ人たちも少なくなって、いつか市史に拾われた記録だけが記憶のよすがとなるのかもしれない。

今日は送り盆の日。
海のあるところは海へ、そうでないところは川へ、盆棚の供物を流す風習は廃れていないと思われる。

墓碑こそ教材

泰国デ戦死と彫られ終戦日
英霊の少年のまま終戦日
墓碑銘は生ける教材終戦日
墓碑銘の一行重き終戦日

墓参してきた。

家人の実家の寺には村の英霊の墓20基あり、同道した子に墓碑を読ませ、戦死した国が広くアジア各国に及んでいたことを教えるいい機会になった。北は「北支」、南は「泰国」とあった。なかには「本州中部方面」とあったが、これは戦病死か。享年19歳から31歳。小さな村から応召し、その多くが若い命を散らせたことになる。家人の父は教職に就いていたことから応召から免れ、かろうじて血を絶やさぬに済んだ。