混み合う

花の雨黄色い線の内までも

鉄道のアナウンス、結構お節介である。

典型的なのが、「雨の日は忘れ物が多くなっております。傘のお忘れのないようにご注意ください」。
おそらく、電車の忘れ物ナンバーワンは傘なんだろうが、昨今は使い捨ての傘など増えてさらに困ってる図が垣間見えるような木がする。
同じアナウンスでも、「電車が来ます。黄色い線の内側までお下がりください」などは、危険防止のうえでお節介とは言えないが、いちいちそんなことに気を配らなくて済むように、転落防止柵の設置こそ急いでもらいたいもの。
花の時期、人出も多くなっているところへ、雨とあってはホームは混み合う。そのホームをなお狭めるかに雨が吹き込んでくる。

晩春

翳し見の古代瓦に風光る

表からは見えない。

本堂の横手に回り、振り返って大屋根に目をやれば目に入る。
飛鳥時代の瓦だ。馬子が創建した、最初の瓦屋根寺院・飛鳥寺にあったものを平城京遷都に際しここに移したのが元興寺である。
何度も修築されていろいろな時代の瓦がのっているとのことだが、飛鳥時代のもの200枚ほどがいまでも使われていて、しかも個々に焼きムラが出ていてなんとも味わいがある。
萩寺としても知られていて、その芽も伸び出して、いよいよ晩春の趣が深い。

初夏の景

田の水にしきり散りゆく山桜

棚田に浮かぶ桜の景色は美しい。

三多気では、水面に映える桜を楽しんでもらおうと一部の田に水を張ってある。
二分三分咲きが多いなかで、なかには散りかけているものもあって、それが水田に浮かぶ花筏となっているものがあった。
流れゆくものではないので、正しくは花筏ではないのだが、水田に浮かぶ花片というのは珍しくてしばらく眺めた。
畦もいまどき見事に塗られて、そこをみるだけではもう初夏の絵になっている。

伊勢奥津の桜

杖なしに登れぬ坂の桜かな
山寺へ一本道の桜かな

そろそろ見頃かなと、伊勢・三多気の桜を見に出かけた。

山桜中心にいろいろな種類の桜があって、一部の枝には咲いているものがあったが、ほとんどの木は二分から三分咲きで、観光用写真にあるような眺めは見られなかったのは残念である。
全長1.5キロほどの上り坂の両側に桜が植えられてあるのだが、これがなかなかの勾配だ。平日とあって坂の半ばにある駐車場まで車で登れるのはいいが、なかにはお年を召していて歩き出してすぐに足が上がらないと諦めてしまう方がおられるくらいだ。
ただ、桜はまだでも、足許に野の花がいろいろ咲いていて、菫、二輪草、蕗の薹の薹のたったのなどが楽しめるし、放棄田の崩れかかった石垣にはコゴミも顔をだしていてちゃっかりいただいてきた。
結局、坂の終点の真福院さんまでは行かなかったが、生まれたばかりらしいオタマジャクシが水を張った田に黒々と固まっているのも発見できたし、遠くに千メートル級の山がおぼろに見えたし、天気に恵まれたまあまあの一日となった。
この分だと、来週の週末でも桜はまだ十分に楽しめるのではないだろうか。

波打ち際

サーファーの沖見るばかり桜貝

同じ桜でも貝の方だ。

さらに、桜貝といってもいろいろ種類があるらしい。やや茶がかかったカバザクラ、紅色のベニガイなど。でも、桜貝と言えば誰でも思い浮かべるのは、2センチあるかどうかくらいの大きさで、文字通り桜色している。しかも透けて見えるほど薄いので、いかにもはかなげで、かつファンタジーである。
貝を耳に当てると海の声がするというが、この貝は耳に当てるには小さすぎる。

海岸に着いたサーファーは、波の具合が気にかかって沖をみるばかりで、足許には注意を払おうとしない。波打ち際を歩いてみれば短時間のうちに桜貝の貝殻をいくつも拾えるというのに。

期間困難地域

植えられて見てももらへぬ桜かな

こんな異様な光景はない。

バリケードされて無住の街の桜。
桜並木のこちら側は避難解除地域でライトアップもされているが、あちら側は期間困難地域で深い闇のまま。

そういうもの

頃なればどこか人来る桜かな

しばらく、「花」シリーズを続けたい。

日本人にとって、桜は人を寄せるものだ。
蕾と聞けば、開花はいつだとなり、咲いたら咲いたでいつが見頃か、いつまでなら見られるか、そんなことが気にかかってしず心ない季節となる。
咲けば、その下に人が集まり、宴になる。夜は夜とて宵篝、最近はライトアップにとって替わられたが。

全然関係ない話だが、「人来る」というフレーズからこんな句を思い出した。

死にたれば人来て大根煮きはじむ 下村槐太

昔は誰に指示されるわけでもなく、隣近所、今風に言えばコミュニティの人たちが集まって、それぞれの持ち場でてきぱきとことが運ばれてゆく。自分も、死ねば、このように、ごく事務的にすべてがながれてゆくのだろうか、と。