住吉さんの太鼓橋

反橋を袴からげて七五三

本来は11月15日が七五三。

実際には11月に入ればいつでも神社は受け入れている。
訪れた住吉さんはあいにくの雨だが、日曜日でそれも日柄がいいのか爺婆、父母を引き連れてこの日ばかりは神妙の子供たちであふれていた。
住吉さんの反橋の傾斜は相当なもので、大人であっても登りはいいとしても下りなどは最新の注意を要する。
3歳、5歳と小さく、まして着慣れない着物とあっては子供たちも大変だ。
大人に両手を引き上げてもらう子、千歳飴の袋を濡れた橋に引きづりながら渡る子、袴や着物の裾をからげる子、いずれも傘を差しながらのことだから端で見てもはらはらしてしまう。

それでも、誰もむずかることなく渡りきるのは、このあとさらに楽しいことでも待っているのだろう。

大阪名物「粟おこし」

本復の筆のびやかに菊日和

恩師の個展が心斎橋で開かれている。

同期生も集合する日に合わせて、会場へ出かけた。
先年大きな病気をされた後リハビリに頑張ってこられた甲斐あってか、今回は30点近くも展示されていて先生の体力気力がいささかも衰えないばかりか、さらにパワーを増しているのではないかとさえ思える。

作風も随分変化があるように感じるものがあり、景色を描くなかにそこに息づく「生命」を謳歌しているよう風に思えるし、題だってどこか「俳味」さえ感じる軽快な調子がある。
短い時間でしかお話しできなかったのは残念だが、来年もまた素晴らしい作品にお目にかかれますように。

ご挨拶にお持ちしたちょっとした昔からの大阪名物。チャレンジしていただけでしょうか。

クリーンデー中止

柔らかな雨の手触り今朝の冬

予報通りの雨となった。

だが、冬の雨ではない。
温かい雨だ。

暦は今日から冬だという。
歳時記は今日の朝を「今朝の冬」と。

冬は雨から始まると気象予報士が言っていた。
手始めは優しいようだが、一ト雨ごとに冬を実感していくことだろう。

月例の地区クリーンデーが雨で休みとなった朝。

観光地の日常空間

大鴟尾に烏睦める秋日かな

大仏殿大屋根に烏が群れている。

それも、賑やかにだ。追ったり追われたりしながら、まるでカップルや兄弟姉妹が睦み合うようにしてあの大きな鴟尾のある屋根で秋の日を楽しんでいるかのように。

南大門から大仏殿入り口にかけては観光客でごったがやしているが、ちょっと横に廻れば小春日の、短い日が傾く前の、ゆったりした時間が流れていて、大屋根のこんな光景もゆっくり眺めることができる。
ここから戒壇院へと下るエリアは、外国人や日本人観光客も少なく、東大寺幼稚園の迎えに保護者が来るときなどは日常の空気が流れているようにも思える。

東大寺を別の角度から楽しめるコースでお奨めである。

木の実降る径

石佛の御名をたどりて秋惜む

以前にも書いたことだが、白毫寺境内の奥には石仏の路と称する一画がある。

古い石佛が並ぶ径は山懐に続くので、この時期は木の実がしきりに斜面に降ってきてその転がる音が楽しめる。

露けしや御身欠けたる石不動

石佛の径は10メートルほど行くとすぐに尽きて、そこに不動明王さんが祀られている。
雷にでも打たれたのか、頭部の天辺部分が鋭角に欠けてちょっと可哀想。
御利益があるというので、寄らせてもらって頭を下げてみた。

奈良三銘椿

実のひとつ二つばかりに名の椿

樹齢四百年とされる白毫寺の「五色椿」。

天然記念物にも指定されている木は高さおよそ5メートル、樹冠も約5メートルで柵で保護されている。
花の時期は桜より幾分早い3月下旬からで、いろいろな色の八重咲きを見せてくれるところからの命名だ。
東大寺開山堂「糊こぼし」、伝香寺「散り椿」と並び奈良三銘椿の一つとされているそうである。

晩秋の境内にはいろいろな鳥がひっきりなしに訪れてくれるが、この椿にも寄ってくれて花のない時期を賑やかにしてくれる。また、椿には秋に実から油を採ることから季題になっているので、その実がついてないかどうか確かめたところ、わずか一つ二つばかりが枝の間から見えている。古い木だけに負担がかからないように枝や葉数も抑え、花の数も抑えているようだ。だからか、すっきりした樹形で奥の方まで見透かすことができるようになっており、もう他には実は見当たらないようだった。

根元の苔には小春と言える柔らかい日差しが届いていた。

皇子ゆかりの

皇子偲ぶよすがの歌碑に秋惜む

白毫寺は高円山の麓にある。

境内には、その高円山に向かうように万葉歌碑があった。

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 巻2-231

白毫寺はかの天智の志貴皇子別邸跡だという伝承があり、皇子がなくなったとき笠金村が詠んだ歌だとされている。萩をことのほか愛した皇子がいなくなって、高円のあたりに咲く萩を見るだにせつなくなるという歌だが、この歌碑が向いているのはその墓のある春日宮天皇陵(正式には田原西陵)だと札書にある。高円山の後背約3キロほどにある山間の地である。

皇子がなぜ天皇と称されたのか不思議に思ったので調べてみた。

天武系最後の称徳天皇が亡くなって、志貴の第六子白壁王が即位し光仁天皇となった。以降天智系の世が続くわけだが、その光仁が父に春日宮天皇の称号を贈ったからと知った。光仁自身も田原東陵に葬られている。
近年太安万侶の墓が発見されたのは、その両陵の間にある茶畑からである。

そのような歴史に思いを馳せながら高円山を眺めていると、権力争いから距離をおきながらも二品にまで上り詰め、かつ多くの万葉秀歌を生んだ賢明でいて繊細な皇子の波瀾の人生を思わざるを得ないのであった。

と、そんな感興に浸っていたら、歌碑の裏手を訪うものがある。笹子だ。

高円の野辺の変はらぬ笹子かな

白毫寺裏手はそのまま高円山につづく森となっていて、人の手もあまり入ってないように思える雰囲気がある。