冬の命をつなぐ

山雀の木の実運ぶに忙しく

貯食という。

リスなどが森に食料が少なくなる冬に備えて、木の実などを蓄える行動のことである。
鳥でも、鵙の速贄などは有名だが、烏や山雀でもそういう行動をとることがあるそうだ。

この丘陵公園の正面はエゴノキ通りとなっていて、初夏には白い花がぶらぶら揺れる。これが秋には丸い実となって、さらにまたぶらぶらと揺れる光景を楽しむことができる。
しかし、あるときになると急にその数が目立って少なくなってくるのだ。
どうやら、実を咥えたかと思うとすぐそばの林の中へせっせと運んでいるようだ。
バーダーも多くやってくるこの公園では鳥に詳しい人がいて、これを「貯食行動」だと教えてくれた。
えごの実が急に少なくなった理由がこれだったのだ。

貯食したものの食べ残した実も多くあるはずで、これが植物の生態の維持や更新につながっていることはよく知られている。
この公園はおおく人の手が入っているが、食べ残したエゴノキが公園の何処かで芽吹くことがあるかと想像するだけで心が温まる。

なお、「木の実落つ」は季語だが、単独の「木の実」は季語ではない。ただし、「椎の実」など具体的な草木の名を冠すれば季語となる。

余談だが、エゴノキという名前はえごの実にえぐみがあるからと聞く。
この鳥には人とはちがう味覚があって、それによって命をつないでいるわけだ。
さまざまな生き物がいて、それぞれに様々な生き方がある。
共生という地球のバランスが崩れないことを願うばかりである。

水も滴る小牡鹿の

沼田場より参道闊歩の牡鹿かな

全身に泥をつけた牡鹿が観光客でごったがやす参道に出てきた。

南大門と大仏殿の中間に小川が流れていて、その橋の下にいい具合の沼田場があるのだ。
小川と入っても、ちょっとした渓のようになっていて水場もあるので、夏にはよく水浴びをしたり、涼をとったり、鹿にとっては格好の休み場のようだ。
その日通りかかったら威嚇するような声が聞こえたので、下をのぞくと今しも沼田場に近づこうとする牝鹿に歯を剥いている牡鹿がいる。彼は沼田場をから立ち上がると追いかけるようにして相手に向かって行き、そのまま参道に出てきた。
煎餅などやってきゃあきゃはしゃいでいる観光客もこれにはびっくり。
何しろ首から腹から尻まで泥が滴たるほどの濡れようだから、近づかれたら大変と凍り付くようにして遠巻きに見ている。

恒例の角切りの時期は終わったばかりで雄のシンボルこそないが、野性味をのぞかせるには十分なシーンであった。

阿吽像

吽形像襞の影濃き秋日かな
吽形像膝に差し入る秋陽かな

東大寺南大門の金剛力士像の20年ぶりの修復が終わった。

昨年の阿形像(向かって左側)から、今年は吽形像、それぞれ工事用足場が組まれたり、シートがかけられたりして見ることができなかったが、先ごろお目見えとなった。
この時期は相変わらずの人気で、修学旅行生が説明員の話を熱心に聞いている。

阿吽像の秋日

午後の吽形像には網のフェンスをすかして秋日が直接あたり、日陰の部分とは深いコントラストを形成しているので、よけいに秋の日差しが強いように思える。

秋空のアクセント

築地塀の筋の真白に金鈴子

表紙の写真である。

東大寺戒壇院の中庭は栴檀の大木が数本あって、五線の筋塀の外からもよく見える。
四天王立像で知られる戒壇院であるが、中庭の砂壇も見もの。さらに門に被さるように立っている栴檀の初夏には花樗の薄紫、夏には木陰、秋の金鈴子も見逃してはいけない。

この金鈴子に合わせて訪ねるのはなかなか難しいが、今年は折良く巡り会えることができた。
葉がすっかり落ちているので、本堂の正面から横手に回っても、名前の通り金色の実が文字通り鈴なりなのがよく分かる。

秋晴れの空を背景にすると、黄色い実は金というより白金のようにも見え、いよいよ輝いてみるのだった。

木の実時雨に打たれる

楢の実の降るというより打つやうに
デッキ打つ木の実二三度弾みけり
靴裏になぞる木の実の丸さかな
椎の実の積もるなぞへの窪みかな
振り向けば木の実の落つる音なりし

昨日、冬鳥が来たかどうかを見に馬見丘陵に行った。

一ト番の鴨が見えたが、遠すぎて種類が判然としない。真鴨のようにも見えたが、それにしては時期がちょっと早いようにも思った。渡りの途中の鴨だったのかも知れない。
代わりに、エナガ、コゲラ、四十雀、山雀などの小鳥を間近に観察することができて飽きることもなかったのはよかった。

それにしても、外気温が26度。ちょっと歩いただけで汗ばむほどだ。これが明日をさかいに一気に寒くなるとの予報が不気味である。

見ようと思う者にしか見えない

天空のわたの原なる鰯雲

鰯雲かうろこ雲か。

その区別について今まであんまり考えたことがなかったが、やはり俳句をやるようになって気になり始めた。と言うのも、歳時記には鰯雲があっても鱗雲がないのだ。
しかし、雲をよく観察してみると、実は同じ雲の形なんだが、見立てによって呼び方が違ってるのに過ぎないことが昨夜寝床のなかで気づいたのだ。

雲片を一匹の鰯とみなしてその群れている様子が鰯雲。
逆に、雲片を鱗とみれば雲全体が一匹の魚に見えるうろこ雲。

分かってみれば単純なことだが、今さら気づくというのは今まで物事をいかに散漫に見てきたかと言うことだ。俳句がちっともうまくならない理由の一つがこれだったのにちがいない。
ちょっとでも上達したければ、人の倍あるいはそれ以上の努力で物事に向かい合うこと。そして気づくこと。これに尽きるのではないか。

その気づいたこと、驚いたことを言葉で言い得れば詩が生まれる。
何事もそうだろうが、散漫からは新しく得られるものはない。逆に、見ようとして対すれば新たな面が見える可能性があるということだ。

津軽海峡定期便

海峡は親潮日和鳥渡る
渡り鳥津軽海峡定期便
海峡の沖つ白波鳥渡る
うさぎ飛ぶ海は寒流鳥渡る

鵯は津軽海峡を渡るという。

それを知ったのはほんの数年前のテレビだが、それまではてっきり留鳥だと思っていた。というのも、一年を通して身近な存在で、どこへ行ってもその姿を見ない日はないからだ。
どういう機をみて渡るタイミングを決するのかは分からないが、天敵に襲われにくいように海面近くを命がけで飛ぶ姿は見ていても感動する場面だった。

それを親潮日和だとは俳人はまことに暢気なものである。