外は雪解の

君子蘭回り廊下の特等席

簡易ビニール温室の君子蘭が開花したようである。

株が大きくなりすぎて室内に取り込むのも大変なので、軒下に温室を用意したのが、連日の零下の気温をものともせず芽をいっぱいつけている。
観葉ものは猫の悪戯から寝室に避難させているが、君子蘭が重すぎて戸外に残したのがかえってたくましく思える。例年、君子蘭の花は4月頃なので、2月開花は初めてのことだ。

もうずいぶん前の春先、雪国の旅館に泊まったとき、回廊の日当たりがよさそうなコーナーに君子蘭が立派な花を咲かせていた記憶と重なるものがある。外はまだ雪解が始まったばかりで、蕗の薹がところどころ顔を出すような時期だったので、なおさら深く記憶に刻まれたのだろう。

至福の朝

凍解けて今日の大地の精気かな

びっしりと真っ白に降りた霜。

春とは言え、ときに冷え込む朝。
日が昇り始めると、たちまち日が当たる部分から解けていって、土も萌えだしたばかりの草も精気をとりもどす。
頭上には相変わらず雲雀の声。いつも何処にいるのか見逃すが、今朝はキヨノリ君に教えられたとおり目の焦点に気をつけたら、うまくその姿を捉えることができた。

今年はなかなかくっきりとした大峯の眺めは見られないが、女人結界の山上ヶ岳から弥山、八経ヶ岳にかけての奥駆行者道の稜線だけはうっすらと確認できた。二泊三日のコースが居ながらにして眺められる至福の朝である。

城ヶ島の磯

老の腰かがめほまちの海苔を掻く

半島の磯を散策していると、広い磯に老婦がひとりで海苔を掻いているところに出くわした。

手にしているのは小さな水切り籠なので、それを専業とするようにはとても思えず、おそらく自家で消費するか、あるいは小さな民宿でも営んでいるのかもしれない。
北側は高い崖に守られているので、それが衝立のようになって浅い春の冷たい風を遮ってはいるが、それでも水の冷たさからは免れられない。
労働のわりには得られるものが少ないと思われるが、磯に黙々と腰をかがめる早春はなんど繰り返されたことだろう。

同窓会メンバーによる城ヶ島ハイキングの、今でもときどき思い出す光景だ。

遠い道

気紛れは風のならひよ風車
折紙の羽根かくかくと風車

特別なことがないかぎり思い出さない季語である。

今朝のNHK俳句の題「風車」を興味深く見た。いつも感心するんだが、世の中にはとても真似のできそうもないくらい詠める人がわんさといる。風車とたわむれる風に真正面から取り組んだ佳句が多くて、言葉を選って掘り起こせば新しい句がいくらでも生まれるのだと。

掲句のレベルではとても入選には覚束なく、遠い道を行くが如しであるが。

尾ひれをつける

河岸変へてまた潜き初む獺祭
河岸変へて獺の祭の尽きるなし

「獺祭」とは七十二候のひとつで、雨水の初候を言う。

「獺(おそ)の祭」とは、この時期、獺が獲った魚を岸に並べるようにして食するという故事から派生した季語である。勿論、「猿酒」などと同様に遊びとしての季語なので、架空の話に尾ひれをつけて面白おかしく詠めばいいわけだが、これがなかなか難しい。

芭蕉に、前書き「膳所へ行く人へ」とあって、

獺の祭見て来よ瀬田のおく

という句がある。これなどは「かわうそ」と読ませるのだろう。
声を掛けられた人も、分かった上で「いいかもね」と答えたことだろう。

烏帽子が自慢

初雲雀今日の天気を確信す
老の眼の焦点甘し初雲雀

初鳴情報もある。

鳥たちはとっくに春を察して、恋の季節の始まりだ。
初雲雀とは言え、真っ青な空のあまりに高いところにいるものだから、衰えた眼には捉えることができない。
朝のうちの靄がかっている空ではますます発見が難しいが、よく鳴く朝はきっと晴れてくるに違いない。

よく目撃する空き地は今年も更地のまま。
いずれ、ふらーっと落ちるようにして降下したり、粋な烏帽子姿の徘徊が見られる日も近い。

ビューポイント

雪割草ふりさけ見れば登廊

長谷寺本坊から見上げる光景はいつ来ても飽きない。

仁王門からくの字を描いた登廊、それが到達する本堂の大舞台の展望が素晴らしい。
足下に目をやれば、庭の冬牡丹もみごとだが、その傍らに健気にひっそり咲いているのが雪割草である。
どの時期に来ても何らかの花が見られる長谷寺は、まさしく花のお寺の名に恥じない。