霜月

霜月の暦の写真は子猫かな

今日から十一月。

今月のカレンダーをめくると、つぶらな目をした子猫の写真だった。
野良ちゃんは相変わらず朝夕に来ては餌をおねだりしてゆくが、ぐんと冷え込んできたこれから夜はいったいどこで寒さをしのいでいるのだろう。

御物

秋園に瑠璃の妖しや人の列

奈良公園内の国立博物館で恒例の正倉院展が始まった。

今年の目玉は瑠璃杯と螺鈿紫檀琵琶。特に前者は古代のガラス工芸の粋を集めたもので、往時を偲び古に思いをいたすには格好の逸材。会期は意外に短いので見逃さないようにしなくちゃ。

浪速弁

甘味には塩昆布添へてそぞろ寒

大阪・ミナミをぶらぶらしてみた。

昼にお好み焼きとタコ焼きを食ったばかりだが、法善寺横丁とくればやはり善哉だろう。しっかりした甘味をさらに引き出す塩昆布。腹の別の場所に簡単に収まった。
ゆかりの淡島千景、浪花千栄子やらミヤコ蝶々などの写真などもあって、浪速言葉が今にも聞こえて来そうだった。

消えゆく言葉

新藁の形とどめぬコンバイン

「稲架」なんていう言葉はいずれ歳時記の中にだけ存在することになるのではないか。

新しいノートブックPCにATOK2012を入れたが「はざ」でも「はさくい」でも「稲」に関わる用語は全く候補として出てこない。俳句を詠むということはある意味で日本語や日本の風習を守ったり伝えたりすることであろうし、稲架も日本には残ってもらいたい風景の一つで、せっせと毎日俳句を詠むのもそんな言葉、風景を大事にしたいからである。

1日で終えられたとみえる稲刈りのあと、共同作業小屋の脇には細かく粉砕された稲藁が山のように積み上げられている。このあと田んぼなどに撒かれるのだろう。稲藁がなくなって困るのは家庭菜園などの敷き藁である。乾燥や病虫害防止のため根元に敷き詰める稲束が必要なのだが、今は手近な所では手に入らない。ホームセンターなど行けば一束2,000円以上の値段で売ってるが、どこのどういう素性のものか不安で買う気がしないのである。

町歩き

築地塀そぞろ歩きの通草かな

奈良きたまち歩きのご婦人方が足を停めて塀越しの通草を愛でている。

熟するまでには至ってないが見事な房なりである。

同級生

無患子や無骨な色は固き意志

何年か前のことだが鎌倉山頂上付近の店先で無患子が無造作に並べられていた。

このときは恒例の同級生によるハイキングの会で、台湾リスが想像以上に跋扈していたり、友人が手に持ったお握りを鳶にさらわれたことなど、いろいろ思い出多いのだが、歳時記をぱらぱらとめくっていたら冒頭の光景がフラッシュバックしてきたわけだ。

明日母校の同窓会、今晩は前夜祭のすき焼きパーティの予定だったが、喪中の身ゆえ。

大きな景色

池の面秋色映えて大伽藍

転害門をぬけて東大寺境内に入ると突き当たりに工事中の正倉院敷地が見える。

その突き当たりで右折して緩い坂を東大寺方面に足を向けると、大きな大仏池に出るがここはどうやら格好のスケッチポイントであるらしい。十人ほどの日曜絵描きさんと思われる人たちがキャンバスやスケッチブックを広げていた。

それぞれの 画布に織り込む 秋の色

池越しに大仏殿の屋根がよく見え、さらに周りの大きな光景を写し込んだ池を手前にした構図は雄大で、絵描きさんならずとも目を瞠るものがある。広い公園にあっては絵描きさんたちもまるでその景色のなかの一素材であるようだ。