先取り?

特売の土鍋買ひ出す残暑かな

チラシをチェックしては、猛暑の中を出かけてゆく。

年金生活者のつましい毎日だ。
今まで日常の買い物などと無縁な男には、そこまでしなくてはいいと思うのだが、それを口にすると主婦のやりくりを分かってないと叱られそうでとても言い出せない。
せめて不要不急の品くらいは、慌てて買いだめすることはないのではないか。少なくとも鍋用製品を買うにはまだまだ早すぎるようではある。それとも季節先取りなのか?
それにしても、残暑とはいえ炎暑並みの毎日、何とかならないものか。

まだまだ簾

秋すだれ産後養ひをられける

台風がきたとき一旦外した簾を再び掛け直した。

秋簾は、秋になってもまだかけられている簾をいう季語だが、実感としては、だんだんと日が傾いてきて部屋の中まで日射しが及ぶようになってくると、それだけで室温が上がってしまうので参ってしまった。実際には、これからこそが簾の活躍時期であることを再発見した。
簾がはたしてどれだけ日射しをカットしているのかは知らないが、掛けてみると明らかに室内の気温上昇具合が違うことが分かる。
まだまだ簾には頑張ってもらわなければならない。

いちいち

餡パンの袋かけしを秋暑し

コンビニの握り飯もそうだが、なんで最近はあんパンやジャムパンまで一個ずつ包装しているのだろう。

もちろん、流通上,衛生上の配慮には違いないが、たかが餡パン、ジャムパンである。最近では主食にするというより、小腹がすいての一時凌ぎ、おやつ代わりに食うものだ。
そんな気軽な食い物を口に放り込みまでに、包みを開けるという儀式が煩わしいったらない。しかも、食い終わって片手には包みの端くれがぶら下がっておるわけで、傍から見てもさぞ不格好にちがいない。
ただでさえ暑い日がきりなく続くのに、ますます苛立ってくるのである。

気分

秋めくやクレープ匂ふ屋上階

せめて気分だけでも秋を味わいたい。

句のような日は今年は来ないのではないかとさえ思える、毎日の暑さ、日射の強さ。
この歳にもなると、夏に屋上に上がるなどとても考えられず、せいぜいが日が落ちてからのビアガーデンくらいしか思いつかない。
掲句は、昼間の屋上にぽつりぽつりと人が戻ってくる頃となって、ようやく秋の訪れを実感するのではなかろうかという、まったくの独断である。
「秋めく」は主観的な季語であるので、取り合わせは具体的客観的なものであることが絶対。それを写生によって実現することが最強の俳句の形だと思うが、なかなかそうもいかない。そこで、小道具としては、ソフトクリームでは秋とはいえないし、やはりクレープやタコ焼きなど粉もんを焼く匂ひをもってきた。

あくまで想像の句だが、はたして季が動くか動かないか。自信もなくて自分ではちょっと分からない。

大花火

腹に来る花火続いて大団円

いくら花火大会でも、テレビで見る花火はやっぱりだめだ。

今日は台風の影響もなく、恒例の大曲花火が中継されているが、パラパラと聞こえはしてもド〜ンという腹の底に響くダイナミズムには全く欠けて、間の抜けようったらない。
腹にずしんとくる花火というのはよほど玉が大きくなくてはならず、地方のちっぽけな町ではなかなかお目に、いやお耳に達しない。
たとえ、近寄るのは大変でビルの隙間からでもいいから、都会の大花火大会をもう一度みてみたいものだ。

艶ある虹

三輪山に夕虹立ちて神さぶる

昨日は若草山、今日は三輪山に。

名のある山に虹がかかれば趣も増す。
とくに今日の三輪山の虹は見事な形、申し分ない色であった。
榛原での句会の帰り途、車窓にそんな立派な虹が立って、一同声を上げるのだった。台風一過とはとても言えない、重ったるいほど湿気がまとわりついて不快な気分を吹っ飛ばしてくれるのに十分であった。
この三輪山の巳さんは好色な神さんとしても知られていて、なんだか、今日は美しい女神を得て得意の絶頂にでもいるかのようにも見えて、なかなか色っぽくもある。
虹にこういう艶っぽい印象を抱くのは初めてで、物語でも生まれてきそうな気さえしてくるのであった。

まんじりとも

台風の盆地に遅き風と雨

地理的な理由だろうか。

ここ大和盆地北西部はいつも雨が少ない。
中央構造線沿いの山々、金剛、生駒山系にさえぎられて雨風が届かないのだろう。
今日も、吉野方面からフェーン現象としか思えないほどの熱い風が運ばれてくるだけで、明るいうちは雨の気配が全くしない。
近づけば急に荒れてくるとのことなので、庭の細々とした物を片寄せたり、窓から簾を外したり、それ相応の対策は打ったが、今夜も闇の台風に耳を傾けながら床にまんじりともしない時間が続くのだろうか。