芋の露 習作

たまゆらの風に耐へては芋の露
芋の露たまゆら風に耐へてゐし

芋の葉にのった露がころころ、あっちゆきこっちゆき。

落ちそうで落ちそうもない様子を詠んでみたもの。
「たまゆら耐へる」というのは、雰囲気としては、すでに類句があるかもしれませんが、自分としてはまあまあできたとは思っています。
前者は、たまに吹く程度の少々の風には葉からこぼれることなく踏ん張っている様子を、後者では、しばらくは耐えていたがやっぱり零れてしまったという様子を織り込んでみました。
どうでしょうか、そんな風には見えるでしょうか?

古色蒼然の四阿

四阿の檜皮しとどに露宿す

吉城園には要所要所に四阿が設けられている。

特に、離れ茶室の四阿は本格的なもので、檜皮を葺いた屋根には苔が生え、杉や竹の枯葉なども散っているという、いかにも古色を漂わせた佇まい。
苔には朝露がびっしりついて、いまにも雫となって落ちてきそうであるところを詠んでみた。
五票いただいので割合受けた句だったが、主宰の選は後日となるので、さてどうなるか。

自分ではいけるんじゃないかと思った句が外れたり、逆にこんなのがというのが特選になったりで、がっかりさせられたり、喜んだりだり、毎回楽しみでもあるが。

入園料免除の集団

高塀に石榴しだるる公舎かな

今月のまほろば句会は登大路の「吉城園」。

南大門前を流れてきた吉城川をはさんで、名園二つ。「依水園」と「吉城園」だが、吉城園は県営で65歳以上は入園無料である。30人も押しかけて誰も入園料を払わぬという、園にとっては災難の客。
元は興福寺の塔頭の一つであったらしいが、その後個人のものとなったり、企業の迎賓施設として使われたりしただけに、大正時代の手作りガラスをはめ込んだ広縁のある豪勢な座敷や離れの大きな茶会ができそうな茶室があるほか、池の庭、苔の庭、茶花の庭が築山などによってうまく配置された立派な庭園である。
広い庭園だけに、季題だらけで他に探す必要もなく、二時間はいただろうか。
いくつか詠めたが、やっぱり植物を詠むのはむずかしいものだとつくづく思わされた一日であった。

掲句は、公園の隣にある県知事公舎のそばを通ったときに見かけた光景。色のコントラストを強調する「白塀」にするか、高さを強調する「高塀」にするか迷ったが、石榴の古木を想像させるにはやはり「高塀」のほうが相応しいと思ったので。

柔らかく受け止めて

一面の苔をしとねの木の実かな

苔の庭には紅葉の枝先だの、木の実だのが落ちている。

どれも、苔の柔らかいクッションに受け止められて留まるかのようだ。
言ってみれば、苔が褥となって、小さな木の実だったら埋まってしまいそうである。
現に、椎の仲間なのか、今年芽吹いたとみえる苗が所々に育っている。

自由の翼

小鳥来る華厳も律も隔てなく
律華厳好きに行き来の小鳥かな
小鳥来る律も華厳も自領にし

広い奈良公園に小鳥の声を聞くようになった。

東大寺(華厳宗)、興福寺(律宗)を含め、広いエリアすべてが小鳥たちの活動領域である。
人間たちは古くから寺領を定めて勢力を競ったが、鳥たちはそんなことには構いなく自由に各寺領を行き来している。

鳥の翼はまことに自由である。

侮るなかれ

腹一杯吸うて討たれし秋蚊かな

思わず我が腕を打った。

小さな痛みを感じたからである。
とたんに腕に自分の赤い血が散った。
たっぷり吸われるまで気がつかなかったようだ。

秋蚊といっても、このごろの秋蚊は決して侮ってはいけない。夏も秋も変わらない力を持ってるので、歳時記としては困った話だ。

九月下旬の香り

木犀の香のみ散らして高き塀
木犀の香の高塀の向こふより木犀の香は高塀の向かうより
高塀を越えて香りの金木犀

高塀に囲まれた路地を歩いていたら、ふいに木犀の香りがした。

振り返ってみたが、木犀の姿は見えない。時期といい、たとえ姿は見えなくても木犀の香りだと確信できるそれである。
どうやら、左右どちらかの塀の内にあるらしい。
いよいよ9月も末なんだなあと実感できるシーンであった。