かな文字が下手と案山子のしかめ面
眉目のよき仕立ておろしの案山子かな
脳みそは詰めてもらへぬ案山子かな
「へのへのもへじ」は案山子の定番。
そしてそれは大概が下手な字で書いてある。
焦点が定まらずやぶにらみ。
孤独で。
雨で墨がにじみ。
風に傾いて。
鳥にも馬鹿にされそうで。
見た目も頼りなく。
実際に効果もなくて。
やがて文字もかすみ。
着たものは襤褸になり。
捨てられる。
そんな哀ればかりではないだろうが。
昨日、今日と、ちょっと句は脱線気味。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
かな文字が下手と案山子のしかめ面
眉目のよき仕立ておろしの案山子かな
脳みそは詰めてもらへぬ案山子かな
「へのへのもへじ」は案山子の定番。
そしてそれは大概が下手な字で書いてある。
焦点が定まらずやぶにらみ。
孤独で。
雨で墨がにじみ。
風に傾いて。
鳥にも馬鹿にされそうで。
見た目も頼りなく。
実際に効果もなくて。
やがて文字もかすみ。
着たものは襤褸になり。
捨てられる。
そんな哀ればかりではないだろうが。
昨日、今日と、ちょっと句は脱線気味。
天高し奈良にふたつの大宮趾
パロディである。
原典はご存じ芭蕉さんの「菊の香や奈良には古き仏たち」。
だだっ広い草原となった藤原京では、虫だの限られた素材に絞られた句ばかりになるだろうと予想して、奈良盆地全体を俯瞰するような気分で作ってみた。
当然選はもらえないものと思っていたが、なかには酔狂な人もいたもので一票いただいた。
ほんとに、平城京といい、藤原京といい、なんにもないスペースをこれだけ確保したのは、外の県ではどこにもないだろう。
秋暑なほ発掘の手の休むなき
藤原京、本薬師寺吟行の日。
台風の影響だろうか、非常に蒸し暑いなかを、あの広大な宮址を北から南へ抜け、休田を利用した布袋葵に囲まれる本薬師寺を経由し句会場まで徒歩で通すわけだから、誰にもきつい吟行である。
90歳を含む高齢化集団にもかかわらず、誰一人落伍者なく無事句会が終了できたのは奇跡かもしれない。吟行で鍛えた健脚がものを言ったわけである。
草原だけがのこるだだっ広い宮址の大極殿南側の一画で、この暑さにもかかわらず黙々と背の高さほどにまで掘り下げて発掘作業を続けている一団がいた。
奈良文化財研究所の人たちである。汗みどろになりながらも、その手は止まらない。
政治家の舌は何枚蚯蚓鳴く
貴種の言信じるなかれ蚯蚓鳴く
蚯蚓鳴く恋歌ならずして何を
蚯蚓鳴く吾も人恋ふ時分にて
無住寺となりて昼より蚯蚓鳴く
やれ、亀が鳴くだの、蚯蚓鳴くだの、呆れるばかり。
そんな句を詠んだところで何になるんだと思いながら、でも、もしうまく詠めたら面白いだろうなという気持ちもあって。
鎮まりの空間に、空耳のように聞こえる。一瞬かもしれないし、ずっと尾を引きながら鳴いているかもしれない。
もしかしたら、虫すだきに紛れこんで鳴いているかもしれない。
雌雄一体だというから恋の歌ではあるまいし、それは一体何だと言って鳴くのだろう。
世を呪う恨み節、それとも人間の馬鹿さ加減を呵々と笑うとでも言うのだろうか。
思いっきり羽目をはずして詠んでみた。
蓑虫の顎でまかなふ衣食住
鬼の子のハンギングして何せんと
蓑虫の倦みて糸吐く引きこもり
冬になって葉が枯れてくるとよく見える。
蓑虫の蓑は枝にしっかり繊維を巻き付けてあるようで、簡単には外れない。
その蓑は、葉っぱや枝の繊維を己の分泌するもので固めたものだから、和紙のような構造をしているのだろう。葉っぱだけでできているのもあれば、茶柱のような細かな枝を貼り合わせたようなものもある。
冬の間はこのように、しっかり枝に固定されているが、今時分は昼間はあの蓑にくるまっておとなしくしていて、夜に葉や枝などを食べるために活発に活動しているらしい。
ときに糸を長くたらしているところを見たりするが、さらには袋から顔だけを覗かせているときもする。見ていると、なかなか固そうな顎に恵まれているようで、エナメル質の頭部がまるっこくて可愛い。
腹が減れば顔を出して葉っぱをかじればいいだけだし、自分の唾液で作った蓑のなかにいるだけで衣食住にはまったく困らない。
「蜘蛛の糸」のカンダタとちがって、糸に追いすがってくる亡者もいなければ、再び地獄に落ちる心配もない。
ただ風来坊よろしく風に揺られていればいいのである。
ただ、人間、とくに子供は残酷である。
蓑にくるまって身を守っているのを強引に引き出そうという遊びの対象にもなる。
蓑虫のチューブしごかれピンチかな
蓑虫の顔を見ようとするにはあの袋を裂けばいいのだが、しっかり繊維で固められた袋は子供の手には負えない。どうするかというと、蓑の尻から押し出すようにして顔を出させるのである。ちょうど絵の具の最後を絞るように、尻の方からしごいていくのである。用心深くやると、仕方なく顔を出してきたところを御用となるわけである。
月白や尻尾の太き飛行雲
飛行機雲というのは見飽きないものがある。
糸を引くようにすうっと一筋きれいに刷けるのもあれば、吐いた口から崩れて広がったり。ときに反対側から機影が見えて、ぶつかりはしないかと心配するくらい同じ高さに飛んでいたり。また、この飛行機雲というのはどこまでも続くのかと思ったら、まるでエンジンが止まったように突然消えてしまったり。
飛行機雲が見られる気象条件というのはあるのだろうが、その時そのときによって雲の形がちがうのが面白い。
先日見たのでは、まるで染色体のように螺旋を描いているのもあって、ちょっと珍しかった。
この数日秋本番の快適な一日を楽しんでいたが、それも早やおしまい。台風12号とやらで今日はやけに蒸し暑い。
あっという間に発達した今度の台風は、この時期らしく西日本にくるらしい。
名月にはまだ日にちがあるが、もう少し静かに願いたいものである。
ところで、調べてみてびっくりだが、今年の名月は九月十五日。陰暦と太陽暦がぴったり一ヶ月の差なんてあるんだね。
禅寺の作務行き届き葉鶏頭
瑕疵あってならぬ禅寺葉鶏頭
「葉鶏頭」という題が出された。
ふだん気にも留めない花、というか葉を愛でる植物だが、はてどんなところにあるものかと検索してみたら、鎌倉は建長寺、総門から山門にいたる石畳の両側によく手入れされたのが並んでいる。
どちらかと言えば派手な色彩で好きにはなれないし、俳句をやらなければとくに興味をひかれるようなものではないが、おかげでいろいろ学ばせてもらっている。
締め切りにはまだ時間がありそうなので、これからは注意して目を配ることにしよう。