ゆきあひの雲を水面に風は秋
秋雨前線ということでぐずついた天気が続いている。
そのせいもあって、気温も上がらずにすんでるのはありがたいことだ。
とこどき太陽が顔を出すこともあるが、吹く風にもどこか秋の気配が感じられるこのごろだ。
週末の台風の進路が案じられるが、台風の本番の季節だけに油断はできない。
「まさか」という言い訳はもう通用しないので自治体、とりわけ首長さんにはリスク管理能力あるところを見せてもらいたいものだ。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
ゆきあひの雲を水面に風は秋
秋雨前線ということでぐずついた天気が続いている。
そのせいもあって、気温も上がらずにすんでるのはありがたいことだ。
とこどき太陽が顔を出すこともあるが、吹く風にもどこか秋の気配が感じられるこのごろだ。
週末の台風の進路が案じられるが、台風の本番の季節だけに油断はできない。
「まさか」という言い訳はもう通用しないので自治体、とりわけ首長さんにはリスク管理能力あるところを見せてもらいたいものだ。
触れるものすべて絡めて烏瓜
そろそろ色づいてくる頃である。
表で堂々と咲くというより、夏の間雑草に紛れて街路樹やフェンスなどに蔓を絡ませるので、色づくまで気づかないことが多い。
葛ほど目立って茂らないことが特徴で、やすやすと進出を許してしまうようなところがある。まるで忍者みたいな草ともいえるだろうか。
真夏に咲く花も目立つものではなく、小さな泡のようで、まるで生き残る術を心得ているようなところがある。
烏が好む実ということでこの名がついたということであるが、その現場を見ることはなかなかない。
身に入むや病歴の欄不足して
初診のときいつも問診票を書かされる。
そのなかで、酒飲むか、煙草喫むかどうかのチェックと同様に、必ず訊かれるのが「既往歴」だ。
あれこれ書いてるうちにあっというまに欄を埋め尽くしてしまう。
もはやこの身が病気のデパート化しているということであろう。
服用の薬の種類もふくめて、いつも書くたび気が重くなってしまう。
ところが、NHKの「ドクターG」などを観ると、実はこの問診票に対応する患者情報、なかでも普段の生活スタイルなどの聞き取りが重要なカギを握っている例が多いようである。
煩わしいなどと思わずに、ちゃんと診てくれることを期待して、丁寧に書いておいたほうがいいに違いない。
実は、当地に引っ越してきて命を拾ったのではないかと思うことがある。
以前では待ち時間が長くて薬だけをもらってくることが多かったが、当地でたまたま受けた医院は処方だけ出すことはせず毎月きちんと診てくれる。そのなかから異常が見つかって、地域連携の県立病院を紹介され事なきを得たことがあった。
今ふりかえって、あのままあの町に住んでたらと思うとぞっとしてくる。
当地では都会の便利さは失ったが、命を拾うことに比べればその代償は問題にもならない。
敬老会てふ案内来る世の侘びし
バス出すと敬老会の案内かな
方面別バス続々と敬老会
初めて「敬老会」なる案内が役場から来た。
歌謡ショーと漫才で敬ってやるから用意したバスに乗って来いと。
まるで、施設でお遊戯している老人並みの扱いだ。「敬老」の押し売り同然のやり方が今でもまかり通っていることにおどろくし、呆れもする。参加したくような、通年の健康体操講座や文化講座、スポーツ振興行事を充実してくれた方がよっぽど洒落ている。
人の敷いたレールに嬉々として乗るような老人はこれからは少数派になるというのに、お上目線の施しに喜ぶと考えているのだろうか。
行政がこの日を祝いたいのなら、老人関係施設の紳士淑女を呼んで式典でもやってればいいのだ。あるいは、普段苦労されている介護士さんなどをねぎらうとかのイベントの方がずいぶんましだ。
敬老の日。なまじこんな祝日ができたから、この日だけは大事にしようなどという風潮を作ってしまいかねない。
追補)後日、えたりの句を発見した。
年寄の日と関はらずわが昼寝 石塚友二
初鵙に宙へ焦点泳ぎけり
朝鵙である。
新聞を取りに出ると、一年ぶりの懐かしい鵙の高鳴きがあった。
一昨日の公園で目撃した小鳥の群れといい、暑い秋といえど、生き物たちは確実に秋の気配を感じ取っているのだ。
温暖化で秋の肩身も狭くなろうかと心配している暇があるなら、さっさと現実のフィールドに目を転じればいいのである。
駅前に献血車ゐる厄日かな
どういうわけか、若い人が見えなかった。
中年ばかりが並ぶ献血車におや?となったが、とりあえずは関係者が率先して献血しているのかもしれない。
この歳では献血を申し出ても即座に遠慮くださいと言われるに決まってるが、それでも健康なうちはできるなら献血したい。
若い頃は自分でもびっくりするくらい短時間で終了したもので、看護師さんからも「よく出ますね」とほめられたものだが、近頃は血液検査のために抜くにも時間がかかるようになったと実感している。多かった血の気も今ではすっかり牙を抜かれてしまったということか。
入社後数年は職場に来る献血車に何度も足を運んだものの、転勤になったりするうちに遠ざかってしまい、献血手帳もどこかへ失せてしまった。
あれこれ思い起こすことも多い献血であるが、できるなら輸血のお世話にならないで済むにこしたことはない。
「厄日」は「二百十日」の傍題。
農業被害関連季語なので、献血は直接関係ないようだけど。どちらかと言えば震災忌だろうが、それも付きすぎで。
災害と言えば、輸血用血液も大事だが、最近では薬不足になったり、薬の供給が思うに任せないことが話題に上る。薬依存の身としてはちょっぴり気になる話ではある。
ほんたふの空へ遊牝しあきつかな
いつの頃だったか、秋田へ向かう途中の安達太良SAで休憩していたときのことである。
頭上10メートルもない高さを、つるんだままの赤とんぼたちが群れて流れて行くではないか。
なかには、伴侶がいない可哀想な離れとんぼがいたが、それにしても圧倒されるくらい見事な雌雄合体集団である。
数にすると万にもなろうかという集団がSAを越えて、つぎつぎと東北自動車道をも横断してゆく。
頃は九月下旬だったから、安達太良山から里へ向けて集団移動していたのであろう。
赤とんぼをみるたび、あのときの感動が蘇るが、同時に思い起こすほろ苦さもある。
それは、福島県に入ったところで速度超過で御用となった後に体験したことで、この素晴らしい遭遇にどれだけ癒やされたことか。