敗荷のさらばふ鉢の寺紋かな
敗荷の鉢に委ねてやすらへる
半ば枯蓮と言っていいかもしれない。
葉が痛んでもう夏の充実したものではない。
軸もかなり細ってきたのに、よくあの重い葉を良く支えているものだと思う。
風でも来ようものならその無骨な骨も折れて、葉もろとも枯れ蓮になっていくのだろう。
それにしても、秋の歩みが急テンポである。
うっかりうたた寝でもして風邪などひかないように。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
敗荷のさらばふ鉢の寺紋かな
敗荷の鉢に委ねてやすらへる
半ば枯蓮と言っていいかもしれない。
葉が痛んでもう夏の充実したものではない。
軸もかなり細ってきたのに、よくあの重い葉を良く支えているものだと思う。
風でも来ようものならその無骨な骨も折れて、葉もろとも枯れ蓮になっていくのだろう。
それにしても、秋の歩みが急テンポである。
うっかりうたた寝でもして風邪などひかないように。
水口の湿りわづかに落し水
盆地の田の早いところでは稲刈りが始まったようだ。
多くはこの週末で、来週中には大方は刈田になると思われる。
2週間ほど前には水口を切って水が落とされ、なかにはビニールの烏を吊したり、キラキラ光るテープを巡らせて鳥の害を防ごうというところもある。
詳しくは知らないが、最後の2週間ほど水を遮断することによって実入りを良くする効果があるのだろう。
水がほとんど落ちて田が乾き、ひび割れも生じてきているが、残り少なくなった水を追いかけてニナやザリガナが集まっているのを見かける。なかには用水、側溝にまで落ちた水に混じってニナが見られる。
このように水がすっかり落ちたとき、ザリガニやニナなどはいったいどこへ行って命を継ぐのか気になってならない。
山梔子の核に灯しの兆しある
山梔子の胴の内より灯りそむ
山梔子は梔子の実をいい、着色料や生薬の材料となる。
梔子色とはこの実から抽出される黄支子(きくちなし)に紅花を重ね染めた黄赤色で、かつては高貴な人(皇太子)にのみ許されたという。
7月に花が終わると大きな実を残すが、9月末ころから徐々に色づきはじめ、11月には全体が見事な色に染め上がる。
ちょうど今頃は色が出始めて間もなくて、青い実の胴体の中というか芯がほんのり黄色味がさしている程度である。
この色は「口なし」の連想から「謂はぬ色」との別名を持ち、古今集などの古歌にも詠まれているようだ。
朱印所の縁にくつろぐ秋日和
朱印所は庫裡の縁なる秋日和
不退寺の朱印所は寺務所兼の庫裡の縁側である。
縁に座れば庭の草苑に様々な秋の句材が見えてくる。
集めた句材を句にしようとひとしきり縁で思考を巡らすが、ただ心地よい秋日に誘われてリラックスするばかり。
だが、意外に句友との会話の中にヒントをいただくこともあるので、雑談もおろそかにはできないものだ。
現に、昨日はそのような雑談や仕草のなかから佳句がいくつか生まれたようだった。
見逃さず句に仕立てたのはさすがの手練れで、学ぶことの多い一日であった。
業平の供養塔訪ふ秋暑し
定例のまほろば句会は不退寺へ。
句材は多かったのだが、見事な菊が咲いているわけでもなく、どれも地味なものばかり。
その繊細さをいかに詠むかに苦心惨憺させられた。
締め切り5分前になってもまだ3句しかできないという、今まで経験したことのないピンチには焦った。
やむを得ず数だけは合わせたので、結果は最初から知れている。
時間をかけて句に仕立てられればいいほうだろう。
不退寺の裏手に業平の墓があるというので、いろいろ探しまわったら石段の奥に見つけることができた。
行ってみると墓ではなく、たいそう立派な供養の五輪塔であった。
東西の伽藍を結ぶ紅葉かな
大寺の松の下には薄紅葉
法隆寺といえば大きな松のイメージがあるが、境内に入ると桜もあれば紅葉もある。
夢殿がある東院と五重塔のある西院は長い一直線の石畳で結ばれていて、その石畳はそのまま西院の西端まで伸びているので非常に長い通路である。季節にはその通路を全国各地からの修学旅行生が行き交うのも法隆寺の風物詩だろう。
その通路とも言うべき石畳の連絡路には、北側だけに桜が植えられていて春には春の、秋には秋の彩りを添えている。どうして南側にないのか理由は分からないが、この片側だけ控えめに植樹されているところはまるで大路のような風格があって大変好ましい。
もう桜紅葉が始まっていて、松の濃い緑とのコントラストがこれから際だっていくシーズンを迎える。