眉刷きのような雲

里の柿買うて金剛山雲高し

今日は橿原考古学研究所長菅谷氏の講演会に顔を出した。

何でも、橿原市・明日香村・高取町の三自治体が協力して世界遺産登録を目指そうとしていて、その前段である「日本遺産登録」された記念の講演だそうである。
テーマは「日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち〜」で、推古以降持統に至るまでの女帝の「女帝中継説」的扱いに再評価を求める話であった。
現在氏が寄稿する日経新聞夕刊のコラムは、扱う話題も幅広く内容的にも超一級のエッセイストぶりを発揮されてるので、今日の講演を早くから予約して心待ちにしていたのである。
風邪を引かれて喉の調子はみるからに辛そうだったが、氏の話は期待に違わず示唆に富むこと多く、また大変ユーモアに包みながらお話しされるので予定時間はまたたく間に過ぎていった。

会場を出ると秋の雲が流れる青空を背景に畝傍がすぐ眼前に見える。天気がこれ以上ないくらいよくて、秋の日差しもまだ時間が充分あるので飛鳥を歩くことにした。

修学旅行生

水彩の達人

里の柿

自転車で散策している修学旅行生のお嬢さんたちやら、飛鳥の田園風景を描いている日曜画家と立ち話したり、途中酒舟石前では地元の柿を買ったり。

飛鳥から金剛・葛城を望む

さあ帰ろうと振り返ったら、金剛山から盆地にかけて眉刷きのような雲が流れていた。

鬼皮と知る

栗を剥く専用ナイフの講師かな

天津甘栗が好きである。

天津甘栗なら腹を爪で軽く割り、親指で横に強くつぶせば簡単に取り出せて何の問題もない。
しかし、茹で栗を手で向きながら食べるときに爪を傷つけたりするし、栗飯、渋皮煮、栗きんとんなどに料理する場合など皮の処理が問題となる。
見るとはなしに見ていたテレビの料理番組で渋皮煮なるものを作る場面があったので最後まで見てみた。
表の強面を鬼皮と言うのを知ったのもこのときである。
思ったのは、皮処理の壁さえ乗り越えれば、あとは大してむずかしくはないようであった。

店に出回っている時期であるので、甘い渋皮煮など作ってみるのも悪くなさそうだ。

ルーチン

巡察の鵙のまた来る律儀かな
巡察の梢に鵙の幾たびか
高枝の鵙の尾羽ふり飛ぶ構へ

同じ場所を巡回しているようだ。

観察していると、一日に何回も同じ枝に止まり、高鳴きし、尾を振るわせては次の枝や屋根に飛んでいく。
テリトリーが確定するまでは気が抜けない日々なんだろうな。
逞しく、しかしどこか哀れでもある。

胸一杯吸う

退院を待ってくれたる金木犀

退院を待っていてくれたかのように金木犀が咲いている。

入院するときには蕾すら見えなかったというのに。
大きく息を吸ってから車に乗り込んだ。

日常から隔離される

冷やかに入院初日整ひて

入院初日というのは大抵は何もすることがない日である。

受付が済むと部屋に割り当てられ、看護師や担当医から明日以降の予定を告げられるのも、すべて予め決められた手順通りに粛々と行われてゆく。
その後と言えば、早い夕食、そして早い消灯、それ以外はなにもすることがない。日常から全く切り離された孤独な時間がやたら長い。

生まれて初めて入院してから2年がたった。

旅愁

外つ国のいざよふ月を待ちわぶる

旅をしてなかなか暮れないことに驚くことがある。

サマータイムだからよけいに夜の時間が長く感じるのだろうか。
長い旅行ですっかり忘れていたが、昨日は仲秋の十五夜だったと聞くと今夜はぜひ十六夜の月を見たくなった。
そこで、アスパラガスを肴にワインを傾けながら、テラスでたっぷりと時間を過ごすのだ。
すると、ビルの間から月が顔出す頃には今日で最後になる旅をあと一日延ばしたくなるのかもしれない。

どこか飛鳥風

頬に五指そへて秋思の仏かな

広隆寺の弥勒像、中宮寺の観音像のしなやかな指とは違う。

この白鳳時代の半跏思惟像は右手の指五本がすっくとのびて、これが頬に当てられている。
どこのお寺のものか忘れたが、飛鳥仏の面影を残している仏さんだった。