秋茄子の冷んやり三つ掌に
小粒だが身が締まっていそうである。
今朝、今年最初の秋茄子が採れた。
梅雨のあいだ雨が多く日照不足気味で生育があまりよくなかったので、梅雨明けは貧弱な実しかつけなくて収穫数も少ないものだった。
そこで八月初めの暑い盛りに、思い切って枝を切り戻し、根切りもて肥料も注いでやると、暑さピークが過ぎたこともあって株がすっかり元気を取り戻したようだ。プランターとはいえ、花もいっぱいつけてしばらくは秋茄子を楽しめそうだ。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
秋茄子の冷んやり三つ掌に
小粒だが身が締まっていそうである。
今朝、今年最初の秋茄子が採れた。
梅雨のあいだ雨が多く日照不足気味で生育があまりよくなかったので、梅雨明けは貧弱な実しかつけなくて収穫数も少ないものだった。
そこで八月初めの暑い盛りに、思い切って枝を切り戻し、根切りもて肥料も注いでやると、暑さピークが過ぎたこともあって株がすっかり元気を取り戻したようだ。プランターとはいえ、花もいっぱいつけてしばらくは秋茄子を楽しめそうだ。
紅ひとつ地雨に点る石榴かな
まだ裂けてないが、もう十分な大きさである。
平群谷を行けば車窓からでも多くの季材が目に飛び込んでくる。先日の山栗もそうだが、今日の石榴もまた車窓の眺めからである。
生駒がすっぽり隠れるくらい山霧が流れてきて、あたりの色を失わんばかりとなったとき、ぽつんと赤い点景が灯った。
石榴の実もまた今年は当たり年かもしれない。ここだけではなく、同じ日の都会の幼稚園の庭にも高々と石榴が実をいっぱいつけているのを見ているので。その数と言えば、園児に一個ずつ持たせてあげられるほどというのはいささかオーバーであるが。
雨去りし大和一国稲の花
ようやく稲の花が咲きはじめた。
すでに穂が出て半月くらいで、いつになるかと気にかけていたら、夕べの雨の上がるのを待つかのように今朝ほころんだようである。
今朝は暑さもすこしましで、これなら平気かと徒歩で投函する気になったが、坂道の往復をほどよい汗で済んだのは何よりだった。これからは多少は外を歩く気にもなれそうで、この長い夏を家でこもっていたなまくらの身体にもいい刺激となった。
稲だが、今ごろ花が咲くのだから、今年も収穫は10月に入ってからだろう。二百十日を前にようやく花をつけるというのはリスキーなことだろうが、風の影響が比較的少ない盆地だからこそうまく乗りきれるに違いない。また、そうであることを祈ろう。
山栗の日差しを占めてまるまると
竹林と日差しを争って、山栗が大きな鞠をつけている。
山栗と言えば貧弱な実のものが普通だが、意外に大きくて栽培のものとかわらないくらい。
昨日書いた元山上口の車窓から見える光景だが、人の侵入を許さないような藪にあって、おそらく誰も採りにはこずそのまま鳥や獣の餌となるものと思われる。
そんな木を今日は何本か見た。
もしかすると、今年は栗の当たり年なのかもしれない。
フロントの窓をかはして赤蜻蛉
いまじぶん田の道を走ると蜻蛉が窓に向かってくるように飛んでいる。
盆の時期に見られる精霊蜻蛉の類いだと思われる。
窓にたたきつぶされるのではないかと、ハンドルを握りながらはらはらするのだがうまく避けてくれるようだ。
ほんものの赤蜻蛉、秋あかねはただいま山からの移動中であろうと想像され、9月の末頃ともなるとつがいの連結したまま空を飛ぶ姿が見ることができる。
しばらく何年もそういう光景にお目にかかったことがないので、今年こそと思っているのだが。
如意輪の半跏の足裏秋涼し
盆地より4度ほど低くて涼しかった。
平日ならばの静寂のなかで、室生寺は静かに夏の終わりを迎えていた。
さすがにもう奥の院までたどるのは無理、というかはじめから目指す気持ちが起きないだけだが。せめてあの五重塔まで、いくつかの石段をたどりながら、弥勒堂、金堂、本堂とめぐりながら室生寺の至宝の仏さまを訪ねる。
如来菩薩、十一面観音さんなどいくつかの仏さまは東京へご出陳中とのことで残念だったが、今やご本尊となっている平安時代の如意輪観音さんとはじっくりご対面することができた。
一心に祈ればみなの悩みを聞いてやり、望みを叶えてくださるご利益があるとの説明を聞きながら、近年汚れをきれいに拭い落とされて、写真の像よりはるかに清淨なお姿をしばらく拝ませていただく。
蝉はみんみん蝉のシーズンとなり、ときおりつくつく法師の声が伝わる。
ひとときの室生の初秋の涼しさを満喫する小旅行であった。