稲妻やうかがひ知れぬ虫籠窓
寺前町の今井町もそうだが、奈良町にもまだまだ古い商家が残っている。
ちゃんと保存されているときには虫籠窓が塞がれることはないが、そうではない場合は物置同然になっていたりしてせっかくの意匠ももったいないことである。
今年の大和の稲の花は遅いような気がしたが、はたして稔りは期待できようか。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
稲妻やうかがひ知れぬ虫籠窓
寺前町の今井町もそうだが、奈良町にもまだまだ古い商家が残っている。
ちゃんと保存されているときには虫籠窓が塞がれることはないが、そうではない場合は物置同然になっていたりしてせっかくの意匠ももったいないことである。
今年の大和の稲の花は遅いような気がしたが、はたして稔りは期待できようか。
くまぜみの腹を見せずに落ちゐたる
さしものクマゼミも最後には地に落つる。
ゴーヤの棚にしがみついていたのか、最後の力もつきてその下に落ちていた。
さすが、蝉の王者らしく、腹見せて裏返るような無様な姿は見せない。
それにしても、王者がいっせいに消えたのに、油蝉の姿は全く見られない。駆逐されたと言うことだろうか。
初秋や蛇口吐き出すぬるき水
やれうれしや。
連続で秋の朝を迎えられるとは。
一昨日の朝などは、夏掛けでは寒いくらいであった。
日中も空気がからっとしてて、快適だ。
だが、そとの日射しの強さはどうだ。帽子や日傘なくては一分と立ち止まっていられないほど、チリチリ灼けるのは真夏に同じ。
この涼しい空気とともに、足もとにはクマゼミが落ちているのを見るようになって、ようやく蝉の主役も交代時期かと思う。
イソヒヨドリ君が久しぶりに電柱の天辺で、あのかわいらしい声を聞かせてくれるのも愉しい。
朝の蛇口の水の温さに驚くのも、急な秋の訪れのことで当然であろう。
御歳を羞じらひもする生身魂
往年の喉を鍛えて生身魂
テレビを見ていたら、往年の名歌手が生出演していた。
御年92歳と紹介されて、恥ずかしそうにはにかむ姿にひととき心が和む。
今でも毎日発声練習されているとかで、あの菅原節を久しぶりに聞いた。
雀百まで踊り忘れずというが、歌い続けることで心身の健康を保ってこられたのには見習うところがあるかも知れない。
かなかなは遠し家々黒き影
夕刻、遠くに蜩を聞いた。
気がつけば、もうとっぷりと暮れており、脊山も家々のシルエットも黒々としている。
どの家にも灯りがついて、盆休みの終わった家々に灯りが戻った。
秋を実感した瞬間だ。
梵鐘の銘を目で追ふ敗戦忌
戦死者を刻す鐘鳴る敗戦忌
戦後に鋳造された梵鐘は多い。
なかには、はっきりと戦死者の名を刻んで、さきの戦争に散った若者たちのために作られたものもある。
ひとつの村で梵鐘の半面をおおうほどの戦死者の名があるということは、村の大半の若者が犠牲になったということである。
家人の実家の墓で見た七基の従兄弟同士の規模をはるかに上回るものである。
理由もなく自国の優位性をひたすら信奉し、何やら勇ましい発言があちこちで聞かれる昨今、かつてそういう言動をとった人たちに限って戦後もちゃっかり、しかものうのうと生き延びた人が多いことを忘れてはならない。
当番を代わつてやりぬ盆初日
近所からワンボックスカーが一斉に消えた。
地元出身もなかばいて通常と変わらない家もあるようだが、九州や中国の実家に帰省しているとみられる家も多い。
今月ゴミ当番のお隣さんも、孫の顔をみせるべく帰省したので、何も予定のない爺婆の家がその間の代役を引き受けた。
今日の月曜日が生ゴミ収集の日で、暑くならないうちにと収集車のチャイム音が遠ざかるのを待って後片付けにかけつけた。
帰省のせいかどうか、ゴミの量もいつもの月曜よりいくぶん少ない。
みんなが夏休みに入る時期でも、休みなしで公共サービスが受けられるのはありがたいことだ。