児雷也になりたい

走り根になりきつてをる穴惑

そばへ行くまで気づかなかった。

一本の根のようになって大きな木の下にとどまっておるのだ。
蛇は生来の苦手なので、打つどころか、一目散に迂回の道に逃げ込むしかなかった。

隙見せず

十分に肥えて蟷螂枯れそむる
枯れし眼の瞳もの追ひいぼむしり
蟷螂のアームかくかくロボットに

身の丈四寸。大きい。

身じろぎもせず警戒している。
隙あらば逃げだそうと機会を狙っているのか。
突き出したボールペンに対して、的確に焦点を当てているような顔の動きである。
どことなく、蟷螂というのはロボットの動きに似ていて、ジーコジーコと関節を中心に動いては静止するみたいで、無駄な動きは一つもないように思える。
これも、獲物を確実にしとめたり、危険からすばやく逃れる術なのかもしれない。

恵み

二タ夫婦鳥来てえごの実の豊か

せっせと運んでいる。

馬見丘陵公園のえごのき通りは今えごの実が揺れている。
なかには殻だけになっている実があるが、これはヤマガラ夫婦が味見でもしたものものらしい。
見ているすぐ目の前に、代わる代わるにやってきてはそれぞれの隠し場の方へ咥えてゆくのに忙しい。
えごの実は咥えるにはちょっと大きいらしく、折り取った軸部分を咥えるので、まるで嘴に鈴がぶら下がっているようにも見える。
写真にあるように、何本かあるエゴノキのうち、ある一本だけがおおかた裸になりそうで、どうやら熟しどきを見極めて運んでいるように見える。この木の実を採り尽くしたら、次の木に取りかかるのだろう。
今年もエゴノキは豊作らしい。

一寸先は

リベラルの流転憂き世のそぞろ寒

ひねくれた人生だった。

例えば、強者にはどうしても心を寄せることはできず、アンチの立場に立ってしまうのである。
就職の面接で「アンチ自民」だと述べたらその時点でアウトだったけど、節をまげてまで嘘を言うのはできなかった。
こんな類いの話をすればいくらでも「下手な生き方」を並べ立てられるが、今に至るまでとくに後悔することはない。
気に入らなければ近寄らなくて済むようになって、ますますこの強情さを楽しめるようになっている。
ところが、つねに傍観者で居続けることは難しいもので、どれかを選択しなければならないときがある。このとき、選択肢に自分の意に沿うようなものがなければどうしたらいいんだろう。

白黒ならぬ白赤つける?

運動会赤かて黄かて緑勝て

なぜだか、平日の今日運動会が見られた。

ちゃんとテントも設えてあるし、明日はまだ週末でもなく予行演習とは思えないのだが。。。?
もしかして、統合か何かで使われなくなった場所を小学校ではなく幼稚園か保育園が借りたのか?
運動会と言えば、赤組、白組が定番だと思うが、青いキャップのチームもいた。
今では教育の現場で順番、優劣をつけなくなったと聞くから、白黒をつけるというのは学校では死語なんだろうか。

乾いた音

からからと乾び蓮の実飛び頃に
飛ぶときがきたり蓮の実飛びにけり

蓮の花托の蜂の巣状に一個ずつつけた実は、とっくに飛んでしまっている季節だ。

花のあとでつけた青い実は食用にするが、このように乾いて皮が黒紫に変色した実は、蜂の巣の中でいつでも花托から外れるようになっていて、揺らすとからからと乾いた音がする。
これがさらに進んで写真にある花托のように枯れてくると直立の姿勢が保てず、まるで傘の骨が折れたようにうなだれて種がこぼれる。
これを「蓮の実飛ぶ」として、秋の季語となっている。
根は蓮根に、種は来年発芽してまた花になり種を増やす。鉢の中でも十分発芽は期待できるということであるが試したことはない。

子守歌

はたおりのおんぶの唄のなかりけり
はたおりのおんぶされる子見ている子

「はたはた」、「きちきち」、どれも「ばった」を言う。

この時期、庭に薄緑色したバッタがさかんにヒョイヒョイ顔を見せる。多くは小さくて雄のようである。
大根の双葉が開いたので、そろそろ虫除けネットをと用意していると、何匹かがネットに飛び込んできた。そのうちの一匹は雌のようで体長1センチほど、数時間たって戻ってみると、ネットに3センチほどの雌のおんぶバッタがしがみついている。おかしかったのは、その周りを何匹かの雄が取り囲んでいて、あたかもおんぶの順番を待っている子供のように見えたことだ。
はたして、おんぶばったはおんぶしたままキチキチと跳ぶかどうかはよく知らない。