巧まざる美

丈低きものらすべたるうしはこべ

冬の間地面を這いつくばっていた草たちがどっと起きてきた。

おおいぬのふぐり、たんぽぽ、ほとけのざ、姫踊り子草、などなどどれも花をつけて我が世の春を競うようである。カラフルで野が巧まざる美にあふれているようだ。
なかでもはこべはすっくと伸びて、白い花を誇らしく突きだしている。それぞれが混じり合って咲いているなかにあって、ひときわ背が高いので春の野道の代表みたいな雰囲気をまとってもいる。
はこべが咲く土は何でも育つと言われ、そういう意味でも春の野草の筆頭であろうか。
葉は兎とか鶏の餌になるし、また干せば薬用、それに春の七草のひとつと昔から庶民の馴染みでもあろう。

春仕様

何作るあてなき蓬摘み帰る

何日ぶりのお日さまだろうか。

やることが多くて朝から忙しい。一日じゅう体を使ったせいか、夕飯がよく入ること。こんなことは久しぶりのことで、心地いい疲労感が心身を満たしている。
これからは最低気温も十度を切ることがないようで、それを聞くと体もだんだん春仕様になってくるようである。明日は雨のようだから少し体を休めてエネルギーを溜め込むとしようか。

使い切る

降りやまぬ街浮かびけり春の雷

雨の一日のハイライトが雷だった。

稲光りといい音といい、現象面から言えばこれはもう夏のものと変わらない。一度ならず、何度も光った。
例によってうたた寝中の猫どもはどこへ身を隠そうかと右往左往している。猫は大きな音が恐いのである。めいめいがそれぞれの場所にもぐり込んで雷が遠ざかってもしばらくは出てこなかった。
長かった雨も甲子園球場では午後から再開できるほど雨雲が遠くに去り、明日は久しぶりの晴になるという。ただその次の日はまた雨らしく、明日は束の間の晴れをフルに使い切る日としたいものだ。

老いに添う

春泥を避ける分別いつよりぞ

年寄りの冷や水という言葉がある。

歳がらにもなく無理をして体を痛めたりすること。「それ、みたことか」と笑われるおちがついた慣用句である。
水たまりやらぬかるみがあれば、若い頃ならば一気に跳んでみせたり、あるいは少々足を取られても突っ切ってゆくことも怖れなかったが、さすがに今はもう無理だ。
降参、降参とばかり回り道をゆくか、引き返すか。
そんな分別というか、弁えというものをいつの間にか身につけて、これを悲しむか、諾うか。
だんだん心も老いに添うてきたように思うこのごろである。

不順

春霖や順延につぐ順延に

よく降る雨だ。

三月に入って季節のリズムが狂ってしまっている。
二月が馬鹿陽気な日が多かっただけに、この落差はよけいに大きく感じる。
農作業にも間違いなく影響をおよぼすにちがいなく、春野菜などには大きな打撃となって市場の混乱も避けられないのではなかろうか。
本来なら今ごろは夏野菜の苗作りたけなわなのだが、雨と低温のダブルパンチで育苗が全然進まず頭が痛い。とにかく低温の日が続くので発芽をもたらす温度が確保できないときた。通常なら三日ほどで発根するところ、今年は一週間経ってもうんともすんとも言わずもしかしたら種自体にも問題があるのではないかとさえ怯えてしまう。
例年だと苗箱などをベランダなどで日光にたっぷり宛てるところ、こう寒くては戸外に置いておくわけにもいかず、部屋を占領していると家人からすこぶる評判も悪い。
農とはしみじみ天候に左右されるものだと今さらながら実感しているのである。
春の甲子園でも二日続きの順延となった、過去にこうしたことはあったのだろうか。

新風

標準木見上げ嘆息花暦

開花予想日が右往左往している。

当初は21日だったがその後24日、今日などは27日かもしれないとか。予報士泣かせの気象のようである。
咲けば咲いたであわただしい気分この上ないが、それもあっという間に終わってしまうのも桜である。
この世の中右を見ても左を見てもろくなことがないが、新入幕力士の躍進、甲子園の溌剌プレー、ちょっと心配だが新天地の翔平君、などなどスポーツ界だけは爽やかな新風、薫風が吹いていくぶんか救われもするが。

予感

開かんとすれど冷えにし姫みずき

日向ミズキの別名である。

ようやく蕾がふくらんできたのでまもなく咲くかと楽しみにしていたのだが、この寒さに足踏みをしているようである。
隣に植えてある雪柳はとうに白い花を見せているので、日向ミズキ独特のやや緑がかかった黄色が加わるのが毎年の楽しみなのだが。
今日も何度か雪の混じった雨の日。昼間はかろうじて日が出たものの夕方になるとぐんぐん冷えてきて、これはもう真冬の寒さとなった。何度も霜にあたりながら順調にきていたエンドウも、さすがに二日連続の冷え込みに先端の芽がやられてぐったりしているのが哀れだ。この分だと今年の農家も天候には苦労させられるようないやな予感がしてならない。