絵画的

雲湧いて墨絵めく山花灯し

平群を囲む山には雨後の雨がわいてまるで墨絵のようである。

そういうモノクロの世界に淡いピンクのアクセントをつけているのが桜である。
すぐ真下で花を見上げるのもいいが、こうして遠くからまるで絵画を眺めるようにして楽しむのもまたよきかなである。
ところで、町には至る所に染井吉野があるが、よく見るとそれぞれ微妙に咲き具合が違うようである。早いところでは三分咲きくらいまで進んでいるかと思えば、まだ開花したばかりというものまで、意外にバラツキがあるのである。特徴的には川沿いの桜がそうじて遅いようだ。
この雨があがり晴れ間が出てくればまた別の絵が眺められるかと思うとわくわくしてくる。

大樹

目覚めては鎮守の森の花明り

朝起きて二階から西の方を眺める。

百数十メートル先、やや視線をあげると小高い八幡さんの森が見える。鶯などの声もよく聞かれる森である。
今朝はそのあたりが薄明るい。開花したのが目にもはっきりと分かるような白さに輝いている。
欅などの大樹に負けまいと、桜の樹も三十メートル以上も見上げるような高さにまで育ち、それが何本かあって森の裾を取り巻くように開花の時を迎えたのである。
これより満開に向けてそのボリュームをましていくのだが、落花しつくすまでは意外に長く毎朝起床する度の楽しみとなる。

いつかくること

エイプリルフールならましかばの訃報かな

半世紀余の友人が亡くなったと。

すでに密葬で済ませ、四十九日の納骨も済ませた後の連絡である。
三ヶ月前の寒い季節、風呂場で心筋性ショック死という。同期のなかでは最も若いだけに惜しまれるが、考えてみればピンピンコロリだったわけで、理想的な死かもしれない。
身の回りに同年代の死が多くなってくると身に迫るものを禁じ得ないが、それもしばらくのことで相変わらずノー天気に下手な俳句を詠む毎日に戻るのだが。

几帳面

掃除機の回り道する春炬燵

暖かくなると邪魔に見えてくるものがある。

炬燵がその代表であろう。
部屋の真ん中で大きな顔をされれば除けて通るも面倒だし、まず掃除機をかけるにも四角く掃かねばならないとあって手間が増える。
こんなとき自動掃除機ルンバだったらどういう動きをするのか聞いてみたくなる。やはり辛抱強く角も四角四面に几帳面にきれいにしてくれるのだろうか。

華やぐ

初花にさばしる水の速さかな

長雨に川は増水している。

信貴山から落ちる沢もいちだんと音を高くして驚かされる。
今日は黄砂が心配される予報だったが、久しぶりの好天に誘われて町歩きを楽しんだ。
どうやら当地では開花したようで、これから十日間ほどは各地から賑やかな花便りが聞かれるはずである。
今夜はタイミングよくNHKBS放送で京都・滋賀・奈良の源氏物語ゆかりの寺社などの桜をライブで紹介する番組もあり、いよいよ一年でもっとも華やぐ季節が始まるというわけだ。

様子見

芽起しの雨のやうやう去りにけり

冷たい長雨がようやく終わった。

暗鬱とした気分に滅入っていたが、庭の梅の芽吹きにこころ開かれる新鮮な感動がある。
今日はいっきに気温二十度を超え、外にいると暑いくらいなのに着ているものは冬のままであるのが可笑しい。暖かくなったと言っても体はまだ早いと言っているようでもう少し様子見が続きそうである。

巧まざる美

丈低きものらすべたるうしはこべ

冬の間地面を這いつくばっていた草たちがどっと起きてきた。

おおいぬのふぐり、たんぽぽ、ほとけのざ、姫踊り子草、などなどどれも花をつけて我が世の春を競うようである。カラフルで野が巧まざる美にあふれているようだ。
なかでもはこべはすっくと伸びて、白い花を誇らしく突きだしている。それぞれが混じり合って咲いているなかにあって、ひときわ背が高いので春の野道の代表みたいな雰囲気をまとってもいる。
はこべが咲く土は何でも育つと言われ、そういう意味でも春の野草の筆頭であろうか。
葉は兎とか鶏の餌になるし、また干せば薬用、それに春の七草のひとつと昔から庶民の馴染みでもあろう。