宇治逍遥

半蔀に冬陽さしかふ社殿かな

宇治駅頭。

宇治駅頭にて

首都圏方面から来るメンバーに合流して私の源氏完読旅行が始まった。
若干早めに到着したので駅前ロータリーをぶらぶらしていると、うれしいことに宇治の紅葉はまだ散らずにいてくれた。

源氏ゆかりのコースを散策するま前に改修終えたばかりの平等院へ向かう。
平等院鳳凰堂と紅葉

鳳凰堂の内部拝観は1時間半待ちだというので、今日は水面に浮かぶ鳳凰堂を外から眺めるだけだ。また機会をつくって家人とでも来てみたいと思う。

昼食の後は、中の島で宇治川の瀬の速さに歓声をあげ、つぎの興聖寺では寺の庭にふれ、世界遺産宇治上神社へ。拝殿の奥の本殿(いずれも国宝)は修復中で見ることはできなかったが、屋根の葺き替えが終わってちょうど足場を解体しているところであった。拝殿はさして広くない境内にくらべて横幅がたっぷりある寝殿造りのようである。半蔀を上げて斜にさす冬陽が入るので、御簾を降ろしていても中が明るくよく見える。

宇治上神社の拝殿

宇治十帖古蹟めぐりでは、与謝野晶子自身の揮毫による歌碑の文字が小ぶりだとか感想を述べあいながら源氏物語ミュージアムへ。この日最後の予定地・三室戸寺では大きな庭園のなかで石楠花の返り咲きを発見したり、落ち葉の吹きだまり模様などを楽しんでいよいよ今日の宿「白川庵」へ向かう。ここでは、夜の更けるのも忘れて映画「源氏物語」のキャスティング論議。お気に入り女優がそれぞれ違っていてなかなか決まらないが、最後はだれもが7勝8敗の痛み分け、めでたく第一夜の眠りについたのであった。

この歳でオフ会

散髪のここが我慢の嚏かな

猛烈な寒さがくるというのに散髪に行ってきた。

いわゆるオフ会を京都の泊まりがけでやろうというので、初めてお目にかかる人に失礼があってはならないからだ。いつもなら「短めで」と言うところ、今回は「普通で」と頼んだ。おかげであまり好きでもない散髪を年内にもう一回は行かなくてはならない。

ところで、このオフ会というのは、源氏物語を原文で2年かけて読もうという壮大な企画を発案し、みごと完遂した仲間が卒業旅行と称して物語の舞台の京都・宇治をめぐる旅なのである。これは源氏物語 道しるべというブログに集まったメンバーで、ネット上の読書会で知り合った「友達の友達」という人も混じっているので、ブログはさながらSNSみたいなものである。もちろん、リアルで見知った人もいるのだが、なかには何年も前からネットやeメールでやりとりさせていただいていてもお写真を見たこともなければお声を聞いたこともない方もいる。
この歳になってオフ会をやろうとは夢にも思わなかったが、皆さん紳士淑女でいらっしゃるのですばらしい会になるのは間違いない。

今頃は、現代俳優による源氏登場人物配役をめぐって酒もずいぶん進んで。。。。。
(本日予約投稿)

懐に入る

胎内に入れば凩やさしけれ

今日は凩の雨とも言えるような日。

朝から断続的に雨がふっていて、それに風が混じっているので木っ端が飛ぶ飛ぶ。枝にしがみついていた桜紅葉の名残もバラバラと散って、濡れ落ち葉状態だ。
ここ何日かのあいだに山の雑木紅葉もすっかり色を落ち着けて、いよいよ眠りにつく体勢が整ってきたようだ。

ただ、凩というものは襟をたてたりして抗うより、森の中など逃げ込めばどこかひとところには凩もまったく届かないような場所があるもので、そこは音一つすらしない。そんな現実とは思えない不思議な空間に自分が立っていることがある。そのときはまるで凩のおなかの中にいるような錯覚を覚えるのだ。

試し切り

よく研いでまずは大根切り落とす

包丁を研ぐとさっそく何かを切ってみたくなるものだ。

できるだけスパッと切れるのがいいので、旬の大根はもってこいの相手役だ。
研ぎ具合、切れ味というものは一回切ってみるだけで分かるものだが、研ぎがうまくいったりすると何回でも刃を入れたくなる。材料を無駄にすると言って叱られるので、そういうときは皮むきでもしながら我慢するしかない。

関西人と時雨

北の山飲んで時雨のくる兆し
背の山を飲んで時雨の兆しかな

家の北方にあたる山が黒い雲にみるみる覆われてくる。

これはもうすぐ来るぞと見ていたら、やがてたちまち大粒の雨が落ちてきた。
時雨をもたらす雨雲が大阪平野、生駒山地を超えて奈良盆地をよぎっていくのだ。家からは葛城山系を越えた時雨が多武峰方面へ向かう様子を何回か目撃している。いっぽうわが家を通る時雨は信貴山を越えてくるから、方角的には北西方面からやってくることになる。
散歩など外出する場合は玄関に出たらまずは北西の空を見るのが習慣となった。

冬の間乾いた晴天が続く関東に住んでいた時には「時雨」と言ってもピンとこなかったが、関西にきてからは実感することが多い。おそらく一週間に一回くらいの頻度で時雨が見られるのである。「時雨」を季題として詠むならばきっと関東よりも関西人のほうが豊かな表現ができるのではないだろうか。

土饅頭

墳丘のまろきまんじう冬ぬくし

芝も枯れてきた。

よく整備された墳丘公園では、それぞれの古墳の姿もよく見通せるようになってきた。後円墳であれ円墳であれ帆立型であれ、どの墳丘もなだらかな孤を描いてまんじゅうみたいだ。
土葬であった昔は墓のことを土まんじゅうとも言ったのだが、さながら古墳は大きな土まんじゅうだと言ってよいかもしれない。

本当は古墳を積んだときには段丘状であったという話だが。

燃え上がる

夕照を浴びて紅蓮と冬紅葉

周囲の山がまだらに燃えていよいよ冬が近い。

遠目には一色に見えていたが近くまで来てみると、意外に色の表情にバリエーションがあって緑に近いものから茶に近いものまで、綾模様が大変美しい。帰り道、これらに夕日が当たり出すと、この時間独特の色味が加わりますます燃えさかるように凄味がましてきた。
その入り日は今では二上山と葛城山の間に落ちるようになっている。