秋色

田仕舞の煙たなびく裏生駒

生駒の山腹をキャンバスにして幾筋も煙が上る。

平群谷の秋の色もいよいよ深くなった。
奈良公園では早くも紅葉の見頃マークがついて、例年より半月以上早いような気がする。
ぼおーっとしていたら、紅葉前線に追い越されてしまいそうになっている。
短い秋もはや終わろうとしている。

SDGs

敗荷の昨夜の名残の雨光る

蓮根がうまい。

歯ごたえもさくさくと軽く食べやすい。新蓮根の季節である。
幸いにも歯には問題ないし、いまだ嚥下機能には困らないので、よく噛みしめて味えば旨さがさらに増してくる。
もともと旬のものをいただくことは、夏には体を冷やし、冬には温めるという天恵の理にかなうことである。
原点に帰って季節のものをいただくことが持続可能性のある生き方であると言えよう。
ひるがえって急にSDGsという言葉を聞くようになった。国連のSustainable Development Goalsという2030年までに達成しようと言う目標らしいが、2050年までに脱炭素社会の実現をという現政権の目論見との関わりはどうなってるんだろうかと頭を捻るばかりなんだが、さて。

紅葉始まる

桜紅葉煉瓦庁舎の同化して

今年の紅葉は早いように思う。

我が町の庁舎のうち、煉瓦タイルを壁面にめぐらした健康センター、体育館兼文化会館、プールなど文教関係の建物が一画に集まっていて、それらを囲むように植えられた桜がいっせいに紅葉してきた。
煉瓦造りの建物が大和川沿いに並び、これらが対岸からも映えてなかなかの眺めなのだが、紅葉の季節ともなるとさらに建物とうまく一体化するように目を奪うような光景を見せる。
春は春で艶やかで派手な雰囲気もいいのであるが、秋のこの瀟洒でいて心落ち着かせるような佇まいも好ましい。

日に日に

祭日の新聞薄し小鳥来る

特徴のある鳴声だ。

朝刊を取りに出てすぐに気づいた鳥の声だが、ジョウビタキにちがいない。見回しても所在を確認できなかったが間違いなくジョウビタキが降りてきたのだ。
これから渡りの鳥たちが日に日に増えてくると思うと、冬の足音も悪くない。散歩の距離もおのずから延びてくるというものだ。

貧乏揺すり

膝閉じて貧乏揺すり冬隣
うたた寝のおのれを叱る冬隣

気がついたら膝を抱きかかえるように坐っている。

膝掛けさえ欲しいくらい冷えてきた。
このままうっかりうたた寝などしようものなら間違いなく風邪をひくだろう。
暦を見てみたら立冬は11月7日だという。
間違いなく冬は足もとにきている。

空虚な気分

橘の実の乏しきに秋の蝶

今年は柚子がさっぱりである。

ただ一個、ぽつんとぶらさがっていおるだけである。
そこへ白い蝶がやってきてひとしきり取りつくように舞い飛ぶ。
しかし、何も得るものがないと悟ったか、弱々しくどこかへ去って行った。
どことなく物悲しい光景を見てしまったなあと空虚な気分に侵されるのだった。

出て見よ

鷹の輪の点となりゆく国の原
地鴉をいなして鷹の舞ひにけり

それは住宅地の上に悠然と現れた。

大鷹のようである。
地上は風もなく素晴らしい秋日だが、上空の風をとらえてゆうゆうと輪を描いている。
地上が枯れてくると狩がしやすくなるのだろうか、鷹は冬の季語とされている。
真上の当たりに来たとき、地上から真っ直ぐ鷹に向かってまるでスクランブル機のように一羽の鴉がかかってゆく。
平原の王者は、煩いやつと関わるのを嫌うように大きく輪を描きながらもさらに高度を上げて平群の方へ向かって行き、やがてその点も溶けるように消えていった。
自宅周辺で大鷹を目撃するのはこれで二回目だが、これも郵便局への軽い散歩の褒美かなと思う。暑いときなどつい車でとなるところを、ちゃんと自分の足で踏ん張って立てばこの目、この耳、この鼻を使って四季の空気を思う存分吸うことができるのだから。