秋は気から

おかはりの茶碗さしだす秋はじめ

毎日冷たいものばかり食べている。

それでもお腹をこわすこともなく食欲は衰えてはいない。
ただ、最近は少し食べる量が減っているようである。それも道理である。毎日家に閉じこもったまま動かないのだから。
人間の体はうまくできているというか、微妙なものである。
もう少し秋を感じるようになるといろいろなものを食べたくなるのであろうか。

コロニー

糞害の一葉の秋の白さかな

川鵜とか烏とかは高い枝が好きなようである。

だいたい彼らはコロニーを形成するので、大きな木、例えば桐などに塒をさだめてその木を痛めてしまうことが多い。
ここのところ歩いてないが、好きな散歩コースには桐の大木が何本かがあって、その中の一本がひどく彼らにやられている。
やられると言うことは、糞まみれになって枝自体が枯れてしまうことである。
惨めになった枝振りの桐をみるたび、この桐一葉という言葉を思い出すのである。

地軸

三十度目途に冷房つける日々

微妙に日が短くなっているのを感じる。

夕方も6時になると室内がやや暗くなってきて、思えば夏至から冬至への三分の一を過ぎたのだなという感を強くするのだ。
地球軸の傾きはこのように着実に太陽に向ける角度を変えているのであるが、北半球の暖まった空気はなかなか下がらないようである。
毎日温度計、湿度計を眺めては30度を超え、31度にもなろうかという時点で即冷房スウィッチオンである。
秋の季題を実感をもって詠める日はいつになるのだろうか。

皿を見る

夫婦して西瓜の種の数比べ

食べたあとの皿を見る。

今日は種の数が随分違うな。
同じ西瓜を食っても、種の多い部分とそうでない部分があるらしい。
今まではあまり気にしなかったが、一度そういうことがあってからというもの自然に相方の皿をのぞく癖がついた。

西瓜は秋の季語だが、他に色々果物が出回ってきてその旬を過ぎた感があるのは否めない。

よその国

空耳に雨の音聞く夜の秋

一雨ほしい。

庭の雑草でさえ水を欲しげに萎れている。
せめて夜を涼しくと玄関周りの草木にたっぷり水をふりかけてやると、一気に体感温度が下がる。
乾いてしまえばまた元の暑い風に戻るのであるが、たとえ水道代が上がろうとも止められない。
あと一週間辛抱だそうだ。そうなると平年並みと言うがそれでも33、4度もある。
なんか昔の尺度とは全く違ってるみたいで、よその国にでも来ているような。

目許

顔半分覆ひ耐へたる秋日傘

目許涼しいという言葉がある。

顔がはっきりと見えるのが条件であることは言うまでもない。
今年はどうか。
暦では秋とはいえ、猛暑は相変わらず。街行く人はマスクも外せず、その表情を読むことはできない。
日傘をさす人もおおく、ますます目許をのぞくことは覚束ない。

それにしても40度超えの現地へわざわざ出向き、帽子もかぶらず日傘もささない家族連れがあるとは狂気の沙汰ではないか。

火傷しそう

盆僧のさらに先師に似てきたる

暑い。

お墓に長く立ってられないほど暑い。
家に帰ってくれば西日の当たる玄関ドアで火傷しそうである。
すっかり忘れていた葭簀を引っ張り出してきて玄関を覆って少しはましになったかなという程度。
ほんらい冷房の好きでない猫どももエアコンの前ではすやすや休んでござる。