鉦叩けふのリズムはちょと違ふ
ふと気がつくと、一定のリズムを刻む虫の声。
カネタタキだ。
今年はわりと早くから鳴いていて、はじめの頃は単調なリズムでテンポも早かったが、今日庭で聞いたのは、リズムに調子があり、しかもゆっくりと大きくはっきりと聞こえるのだった。
季節の成熟とともに、虫の音楽も習熟度を高めるのに違いない。ちょうど春先の鶯の初音がおぼつかなくとも、やがて見事な夏鶯の風格を帯びるように。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
鉦叩けふのリズムはちょと違ふ
ふと気がつくと、一定のリズムを刻む虫の声。
カネタタキだ。
今年はわりと早くから鳴いていて、はじめの頃は単調なリズムでテンポも早かったが、今日庭で聞いたのは、リズムに調子があり、しかもゆっくりと大きくはっきりと聞こえるのだった。
季節の成熟とともに、虫の音楽も習熟度を高めるのに違いない。ちょうど春先の鶯の初音がおぼつかなくとも、やがて見事な夏鶯の風格を帯びるように。
韮咲いて雨のうながす匂ひかな
突然の雷雨に遭遇した。
その地域の警戒レベル3と出て、しばらくは足止めを食らうことに。
家人に電話すると自宅周辺はそうではないということだったが、小降りを幸いに帰ってくると、今度は自宅から平群、生駒方面に大雨警報が出ていて大変なことになっている。
日中36度を示していた温度計が一気に24度に落ちていて、それはありがたいことだったが、花をつけている韮がいつもなら匂いなどしないのに、日中の熱をはらんだまま強く雨に打たれて刺激されたよでも言うように強い匂いを発していたのには驚いた。
ぽんぽん咲きの韮は今盛りである。
水足りて暗渠を奔る厄日かな
段々の田圃の水があふれて暗渠に奔っている。
今のところ水は十分足りているようであるが、一方で南の海で次々と台風が生まれているという。
今がちょうど稲の花どきで、農家としてはここしばらくは心穏やかならない心境だろう。
二百十日、二百二十日とはまさにそういう時期で、厄日として季語にもなるほど農事と深く結びついてきた我が国の暮らしには無事に乗り越えたいという強い願いも込められている。
折しも、当地にはカンカン照りの日が戻ってきたが、ニュースによれば広島、岡山両県のあたりが豪雨とも。佐賀など北九州の豪雨禍の傷跡もまだ生々しく、これ以上被害が拡散しないよう祈るばかりだ。
風鎮めのおわら風の盆は今宵が最終日。胡弓の音と踊り手の手の動きが妙に切ない流しが夜明け近くまで続く。
秋茄子の冷んやり三つ掌に
小粒だが身が締まっていそうである。
今朝、今年最初の秋茄子が採れた。
梅雨のあいだ雨が多く日照不足気味で生育があまりよくなかったので、梅雨明けは貧弱な実しかつけなくて収穫数も少ないものだった。
そこで八月初めの暑い盛りに、思い切って枝を切り戻し、根切りもて肥料も注いでやると、暑さピークが過ぎたこともあって株がすっかり元気を取り戻したようだ。プランターとはいえ、花もいっぱいつけてしばらくは秋茄子を楽しめそうだ。
紅ひとつ地雨に点る石榴かな
まだ裂けてないが、もう十分な大きさである。
平群谷を行けば車窓からでも多くの季材が目に飛び込んでくる。先日の山栗もそうだが、今日の石榴もまた車窓の眺めからである。
生駒がすっぽり隠れるくらい山霧が流れてきて、あたりの色を失わんばかりとなったとき、ぽつんと赤い点景が灯った。
石榴の実もまた今年は当たり年かもしれない。ここだけではなく、同じ日の都会の幼稚園の庭にも高々と石榴が実をいっぱいつけているのを見ているので。その数と言えば、園児に一個ずつ持たせてあげられるほどというのはいささかオーバーであるが。
雨去りし大和一国稲の花
ようやく稲の花が咲きはじめた。
すでに穂が出て半月くらいで、いつになるかと気にかけていたら、夕べの雨の上がるのを待つかのように今朝ほころんだようである。
今朝は暑さもすこしましで、これなら平気かと徒歩で投函する気になったが、坂道の往復をほどよい汗で済んだのは何よりだった。これからは多少は外を歩く気にもなれそうで、この長い夏を家でこもっていたなまくらの身体にもいい刺激となった。
稲だが、今ごろ花が咲くのだから、今年も収穫は10月に入ってからだろう。二百十日を前にようやく花をつけるというのはリスキーなことだろうが、風の影響が比較的少ない盆地だからこそうまく乗りきれるに違いない。また、そうであることを祈ろう。
山栗の日差しを占めてまるまると
竹林と日差しを争って、山栗が大きな鞠をつけている。
山栗と言えば貧弱な実のものが普通だが、意外に大きくて栽培のものとかわらないくらい。
昨日書いた元山上口の車窓から見える光景だが、人の侵入を許さないような藪にあって、おそらく誰も採りにはこずそのまま鳥や獣の餌となるものと思われる。
そんな木を今日は何本か見た。
もしかすると、今年は栗の当たり年なのかもしれない。