痛い視線

子を守る水札の威嚇の痛いほど

団地の遊水地が子育て場になってるようだ。

水札は「けり」と読む。冬の渡り、田鳧とは違う。
この二三年あの独特の「ケリケリ」と甲高い声が近所でよく聞かれるようになって、どうやら道路から一段十メートルくらい深くて、半分ほどが草に覆われているプールのような空池を安全な場所と判断したようだ。
親は雛を散歩させるにも、甲高く鳴いて守っているので、付近の人はあの声に辟易しているかもしれないが、だれも除去しようという声は起きない。
通常は田や畑で子育てするのだが、天敵に対抗するには格好の場所なんだろう。
先日そばを通りかかったら、ネットフェンスの上からまるで威嚇するように咆えながらこちらを伺っている視線を感じた。頭にケリを入れられてはたまらないから興味ないそぶりでその場を去るのがやっとだった。

遊び友だち

風吹くまま角向くままにかたつむり

なめくじは見るのもいやだが、蝸牛なら掌にものせられる。

子供のころからの遊び相手だし、あのゆったり動きを見飽きることもなく、とくに人間に害を及ぼすことのない蝸牛は歳をとっても愛してやまない存在なのである。
目玉はあの角の先端にあって光りを感じることができるらしいが、視覚というのはないらしい。ということは、いったい何をしるべに動いているのだろうか。匂いなのか、音なのか、風(空気)なのか、調べてもないのでよく分からないが、少なくともあの動いて止まない角が何らかのセンサーの働きをしていることは違いないだろう。
梅雨も近い。絵に描いたように、雨に濡れた紫陽花をかたつむりが這ってくれないかと思う。

毒よく毒制す

句悩するひとりの世界夏木立

大宇陀薬草園へ吟行。

春に訪れたときとは様相が全く違い、草という草茂りあって、当然ながらどれも薬草。
ここでは嫌われ者のどくだみだって大きな顔してスペースを占めている。
花には早かったがトリカブトの丈もすっかり伸びて、吟行子は怖い物見たさに顔を寄せ合うように眺めている。
このような毒のある薬草が思ったより多く、薬効と毒とは紙一重の関係にあるのだと言うことがよく分かる。
毒よく毒を制すということか。

新兵器

ドア閉めるより早く蚊の滑り込む

蚊のシーズンがまたやってきた。

外にちょっといるだけで、露出した腕や首筋を鋭く刺してくる。
今日など、家に戻るときつきまとっていた奴を振り払おうとしたが容易に侵入を許してしまった。
一応身の回りに奴がいないと踏んでドアを開けたのだが、そのわずかな一種の隙を突かれたのである。
いったん侵入を許したが最後、今度は室内のイタチごっこが始まるのである。
ああ、ゆううつ。
だが、今年は昔より吸引力が上がった掃除機を武器にしようと考えている。うまくいけば一瞬にして仕留めることができるだろうことを期待して。

宅配

ピザ届く家の南天咲きにけり

米粒ほどの蕾が開き始めた。

日曜日の団欒を過ごそうというのか、宅配のピザを頼む家がある。
玄関アプローチの南天の花をこぼしながら配達員が玄関に立つ。

常世の国で

山辺の道てふ坂の花蜜柑

蜜柑畑のイメージはどうしても斜面でなければならない。

それも海に面して光りをいっぱい浴びる図だが、どっこい盆地の大和だって蜜柑畑はあるのだ。
奈良だから柿があるのは当たり前で、蜜柑畑とは貴重な存在だ。山辺の道のなかほど、景行天皇陵あたりの斜面に広がっている。
秋にはちゃんと蜜柑狩りさせてくれるし、商業的にも成り立っているのだろう。
柑橘類の歴史をひもとけば、その昔、垂仁天皇の時代、不老不死の薬を求めて常世の国に田道間守をつかわし、持ち帰ったのが非時香菓(ときじくのかくのみ)、すなわち柑橘の実と枝であった。そういうエピソードをふまえて山辺の道に原種に近い苗を育てているという話もある。
蜜柑の起源は大和にあるというわけだ。

水嫌い?

一声のありて斉唱雨蛙
雨蛙いとふ如雨露の雨なりし
曇天に鳴きみ鳴かずみ雨蛙

雨蛙は不意の雨を嫌うようだ。

庭に居着いているのが、ランなどに水をやろうとすると慌てて姿を見せて逃げ出す様がこっけいである。
いかにも雨など水を喜びそうに見えてそうではないのが何とも可笑しい。
複数の雨蛙がひそんでいるようで、一匹が鳴き出すと相呼応して他のやつも鳴き出す。
秋の虫だけではなく、夏の蛙も合唱するとみえる。