ゑのころの悲哀

ダンプカー積み荷にのぞくゑのころ草
ゑのころの尾をこぼしゆくダンプカー

近所の田んぼをつぶして道路を造るそうな。

何でも、昔からある在の道路が狭くてまさかのときに救急車や消防車が通れないから、新しくアプローチする道路だそうだ。
開発の場所は団地に接したエリアになるので、ここんところダンプがひっきりなしに土砂をどこかへ運んでは戻ってくる。
元田んぼと言っても、ここ数年は貸し農地となっていたところも多く、去年から貸し農地も休業となっていたので、今では雑草まみれの原っぱである。
信貴山のほうへ向かってゆくから、大阪との県境の山中にでも廃棄するのだろうと思われるが、土砂を目一杯摘んだダンプカーがうんうん言いながら坂を登ってゆく。荷台の乾いた土には、草の根っこなどものぞいていて、カーブで発進するときなどに土とともに一緒にパラパラこぼしもしたりして。
最近は、登校も下校も集団だから、道端の猫じゃらしもなかなか遊んでもらえる機会が少ない。
まして、今年の旱天で成長もよくなくて、なかなか見事な尻尾にまでは育たないようで、ちょっと可哀想でもある。

先取り?

特売の土鍋買ひ出す残暑かな

チラシをチェックしては、猛暑の中を出かけてゆく。

年金生活者のつましい毎日だ。
今まで日常の買い物などと無縁な男には、そこまでしなくてはいいと思うのだが、それを口にすると主婦のやりくりを分かってないと叱られそうでとても言い出せない。
せめて不要不急の品くらいは、慌てて買いだめすることはないのではないか。少なくとも鍋用製品を買うにはまだまだ早すぎるようではある。それとも季節先取りなのか?
それにしても、残暑とはいえ炎暑並みの毎日、何とかならないものか。

まだまだ簾

秋すだれ産後養ひをられける

台風がきたとき一旦外した簾を再び掛け直した。

秋簾は、秋になってもまだかけられている簾をいう季語だが、実感としては、だんだんと日が傾いてきて部屋の中まで日射しが及ぶようになってくると、それだけで室温が上がってしまうので参ってしまった。実際には、これからこそが簾の活躍時期であることを再発見した。
簾がはたしてどれだけ日射しをカットしているのかは知らないが、掛けてみると明らかに室内の気温上昇具合が違うことが分かる。
まだまだ簾には頑張ってもらわなければならない。

いちいち

餡パンの袋かけしを秋暑し

コンビニの握り飯もそうだが、なんで最近はあんパンやジャムパンまで一個ずつ包装しているのだろう。

もちろん、流通上,衛生上の配慮には違いないが、たかが餡パン、ジャムパンである。最近では主食にするというより、小腹がすいての一時凌ぎ、おやつ代わりに食うものだ。
そんな気軽な食い物を口に放り込みまでに、包みを開けるという儀式が煩わしいったらない。しかも、食い終わって片手には包みの端くれがぶら下がっておるわけで、傍から見てもさぞ不格好にちがいない。
ただでさえ暑い日がきりなく続くのに、ますます苛立ってくるのである。

気分

秋めくやクレープ匂ふ屋上階

せめて気分だけでも秋を味わいたい。

句のような日は今年は来ないのではないかとさえ思える、毎日の暑さ、日射の強さ。
この歳にもなると、夏に屋上に上がるなどとても考えられず、せいぜいが日が落ちてからのビアガーデンくらいしか思いつかない。
掲句は、昼間の屋上にぽつりぽつりと人が戻ってくる頃となって、ようやく秋の訪れを実感するのではなかろうかという、まったくの独断である。
「秋めく」は主観的な季語であるので、取り合わせは具体的客観的なものであることが絶対。それを写生によって実現することが最強の俳句の形だと思うが、なかなかそうもいかない。そこで、小道具としては、ソフトクリームでは秋とはいえないし、やはりクレープやタコ焼きなど粉もんを焼く匂ひをもってきた。

あくまで想像の句だが、はたして季が動くか動かないか。自信もなくて自分ではちょっと分からない。

大花火

腹に来る花火続いて大団円

いくら花火大会でも、テレビで見る花火はやっぱりだめだ。

今日は台風の影響もなく、恒例の大曲花火が中継されているが、パラパラと聞こえはしてもド〜ンという腹の底に響くダイナミズムには全く欠けて、間の抜けようったらない。
腹にずしんとくる花火というのはよほど玉が大きくなくてはならず、地方のちっぽけな町ではなかなかお目に、いやお耳に達しない。
たとえ、近寄るのは大変でビルの隙間からでもいいから、都会の大花火大会をもう一度みてみたいものだ。

艶ある虹

三輪山に夕虹立ちて神さぶる

昨日は若草山、今日は三輪山に。

名のある山に虹がかかれば趣も増す。
とくに今日の三輪山の虹は見事な形、申し分ない色であった。
榛原での句会の帰り途、車窓にそんな立派な虹が立って、一同声を上げるのだった。台風一過とはとても言えない、重ったるいほど湿気がまとわりついて不快な気分を吹っ飛ばしてくれるのに十分であった。
この三輪山の巳さんは好色な神さんとしても知られていて、なんだか、今日は美しい女神を得て得意の絶頂にでもいるかのようにも見えて、なかなか色っぽくもある。
虹にこういう艶っぽい印象を抱くのは初めてで、物語でも生まれてきそうな気さえしてくるのであった。