練供養

滴れる山の裾練る菩薩かな

昨日14日は當麻寺練供養である。

中将姫が入滅する際25菩薩の御来迎を受けたという故事を再現するお渡り式である。
映像で見るかぎりでは狭いところに大勢の人が集まるので、とても出かける気にもならないが、何せ千年は続く法会であるから気にはしている。
雨が去った今日は、まるで夏と言ってよく、ついこの間まで薄緑から濃緑にかけてのグラデーションに心が奪われていたのが嘘のように、すでに夏の一色に染まっているのに驚いた。
平群谷に迫る両側の山は雨に洗われて、生駒も暗峠も矢田の森も目にも鮮やかな緑である。
まさに山滴るである。

律儀に

イベントの雨の楽日の鯉幟

大雨洪水警報が出る日だった。

にも関わらず、平群川(公式には竜田川だが)の畔に並べた鯉幟10数基が竿をおおいに撓ませて雨空に泳いでいる。
この風雨に青竹一本だけでよく保つものだと感心もしたが、律儀に泳いで見せても誰も見に来る人がいないのは実に気の毒である。
明日以降降ろされるだろうが、はやく解放してあげたいと思うばかりである。

さんづけで呼ぶ

母の日や夫は敬称つけて呼ぶ
母の日のかけ放題の電話かな
母の日や遺る時計の針進む
メールして電話もかけて母の日に

生存中は一度も名前で呼んだことはなかった。

今はこうして仏壇に名前で呼びかけている。
親孝行らしきものは何ひとつせず見送ったのは今でも悔やまれる。

旬の紫

車止め半身で抜けて夏薊

薊が今鮮やかだ。

一面西洋カラシナの河原も、すっかり夏に模様替え中。
そのなかで、紫がいちだんと濃くなってきた薊に目がとまる。
人と自転車しか通らない土手なので、まわりを気にせず目をあちこちやっては散歩を楽しめる。
夏薊だから花期は長いのだが、やはり旬は初夏である。まわりが緑を濃くしてゆく中でひときわの鮮やかさを愛でたい。

天麩羅で

天ざるの今日の色立つ雪の下

ここ数日玄関脇の植え込みが明るい。

二、三年前に植え替えた雪の下の株が今ではずいぶん増えて、下草の役割をおおいに果たしているようだ。
それが、ここ一週間ほど鴨の足に似た可憐な花をいっぱいつけて目を楽しませてくれている。
ある万葉植物園で、何の木の下だったか忘れたが、やはり可憐な白い花をつけているのを発見し、以来いつか庭に植えてみたいと思っていたのであるが、ようやくさまになってきたようである。

天麩羅でいただくことにしているが、味もないのに妙にうまい。

全国ブランド

泥濘るみて茅花流しの牛舎かな
牛舎吹く茅花流しの密度かな
タグの耳ぶるっと茅花流しかな

青葉冷え、青葉寒というのだろうか。

昨日今日と寒い。
黒南風とまではいかなくて、風も湿り気を帯びている。
こういうのを茅花流しというのだろう。

大和牛。ブランドとしては二流かも知れないが、味はいけている。もう少し本気を出して、清潔で快適な環境で育ててやれば全国ブランドになりうると思うのだが。

耳鳴りみたいな

松蝉の風のまにまに陵の濠

聞こえるかどうか。

それくらい幽かな音だ。
音と言っても夏の蝉のようにミンミン鳴くわけでもなし、林全体から耳鳴りのように体全体を包み込む空気と言っていいだろうか。
当然、発生源など確かめようもなく、ただ林のどこかにいると感じるだけである。それも何匹いるかもさっぱり分からない。