猫の苦手なもの

断りて天下晴れての嚔かな
すれ違ひざまの嚔の漢かな
くしゃみして猫の不興を買ひにけり

くしゃみを怺えるのは難しい。

たまに、出そうでいて不発におわると周りのほっとした瞬間を感じるときもあれば、いきなり大きなくしゃみをして周りの顰蹙、不興を買うときもある。そういう場合はハンカチで抑えるとか、手で覆うというようないとまはまずなく、満員電車とか、喫茶店とか、閉所に人が詰まっているような場所なら間違いなく冷たい視線にさらされるし。
たしかに、逆の立場となってみれば、マスクくらいしてろよとか言いたくなるもの。
せめて、間が取れて周りに断ってからのくしゃみなら、後ろめたさも幾分はれて心置きなくぶっぱなすことができそうだ。
ただ、他人に向かっては間違ってもしてはいけないのは無論である。

先々代の猫は、家人の周波数の高そうなくしゃみが苦手で、必ず声をあげて抗議していたものだ。猫だって、耳障りになるようなくしゃみは苦手なのだ。

類句大量生産

出稼ぎの夫に代わりて冬田打つ
出稼ぎの列車貫き大冬田
出稼ぎの駅へ途中の冬田かな
整然と電柱影引き大冬田
石積の崩れてありぬ冬棚田
冬棚田巻いて葛城古道かな
杭跡の湿り残れる冬田かな

兼題句である。

米どころの田、兼業農家の田、三ちゃん農家の田、峡の田、それぞれ場面は考えられる。
大きく詠んだり、微細な点を詠んだり、見慣れた景色だからいろいろな句が生まれておかしくはないだろう。
ところが、いざやってみるとなかなか難しい。
締め切りまで数日あるから、もっと数詠まなくちゃ。

どこに「金」がある

近火とてバケツ手にしてみたものの

大火があった。

悪条件が重なってこのような火事は20年ぶりだという。
百軒以上が全焼となって、類焼となった被災者は年末を控えてまことにお気の毒というほかない。
今回は風下となった海がもっと遠ければ、被害はもっと広範囲に広がっていたに違いないと思うとぞっとしてくる。

熊本の地震といい、このような大火といい、終わってみれば今年は災害の年として記憶に残ることは間違いない。
今年の漢字が、過去何回か採用された「金」だとは、どう考えても感覚的に受け付けなかったが、この大火によってますますその坊主のノー天気ぶりが嗤われることになろう。

16年の句から(後編)

続いて、今年後半をみてみます。

回覧板届けるだけの日傘かな
投函を忘れし葉書梅雨湿り
口よりももの言ふ小津の団扇かな
勸請縄懸かる巨木の蝉時雨
秋茄子の水よく撥く紫紺かな
木犀の香は高塀の向かうより
庭園灯及ばぬ先のすがれ虫
隧道の洞へ綿虫消えしまま
数へ日やゲラにやたらの誤字脱字
煤掃やかくも埃のなかに棲み

前半とうってかわって10句に絞るのが大変でした。
今年も後半の部は実り多く充実した半年だったようです。

あえてベスト3に絞りますと、

1 回覧板届けるだけの日傘かな
2 隧道の洞へ綿虫消えしまま
3 数へ日やゲラにやたらの誤字脱字

回覧板の句は、一見擬人法的な用法ですが、そうではなくて、よほど暑かったか、あるいは日焼けするのがいやだったか、ほんの僅かの距離をゆくだけなのに日傘を使ったということを凝縮して言い表した面白さといいますか、俳句らしい表現となったのではないかと思います。
綿虫の句は、ちょっとした風にも運び去られてしまうような、いかにも賴りげない綿虫を、トンネルを吹きぬく風に吸い込まれてしまったように再び現れることがなかったと、その儚さをうまく言い当てることができたと思います。
数へ日の句は、暮れもいよいよ押し迫って、印刷所の仕事も殺到しているに違いありません。そこへギリギリに入稿したものですから初校は誤字脱字がふだんより多くなり、なお切迫感が増した感じが出せたのではないかと思います。活版印刷の時代、該当する活字がきれて、代わりに黒四角だけの、いわゆる「欠字」のままゲラ刷りを渡されたことを思い出しました。

全部言い切ったら俳句にならないと言われます。余白にものを言わせる文芸ですので、これからも自分だけの言葉を探す長い旅が続きます。ああ、あともうひとつ。古文法と歷史的仮名遣いの勉強もしなきゃね。超短詩形ゆえ、和歌ほど複雑で幅広い用法はありませんが、恥をかかない程度には。

16年の句から(前編)

クリスマス週末はちょっと一息ついて、今年の句を振り返ってみましょう。
まずは前半から。

寒紅をひいて退院まぢかなる
悴みて共働きの家事担ふ
休講と板書あるのみ冴返る
パスポートいつ切れしやら鳥雲に
古墳あるだけの公園のどけしや
春愁や活断層に沿うて住み
早退の帰路を塞ぎし出水かな
校庭に出水見舞ひの飯を炊く

10句を挙げることはかなわず、総じて前半は不調でした。
結社雑詠毎月五句の内四句入選をめざすも、目標を下回っているし。

この中からあえてベスト3を挙げるとすれば、

1 パスポートいつ切れしやら鳥雲に
2 休講と板書あるのみ冴返る
3 古墳あるだけの公園のどけしや

さえなかった前半ですが、このパスポートの句だけは今年を通してもベストワンではないかと自負しております。とかく二物対比で詠むのは難しいものですが、うまくいったと胸を張れるのはこれが初めてでしょう。

共助で

定年となりて煤逃封印す

定年ともなると、煤逃げの口実が見つからない。

それに、自分も歳をとったが連れ合いも色々ガタがきてもおかしくない。
腰をさすりながら掃除しているのを、知らぬ顔決めるわけにはいかないし、ふだんから掃除機などはなるべく分担するようになっている。足腰が立たなくなって「煤籠」せざるを得なくなるまでは、家事を分担しながら、共助の精神でいくのがいいというものだろう。

今日は、納句座。納会もあるので予約投稿である。

我家の事始め

煤掃やかくも埃のなかに棲み
煤掃やかくも芥に身を埋み

年末だからと言うわけではないが、たまに気が向いたりして念入りに部屋をあらためる。

出るわ、出るわ、この埃。
ふだん気にも留めずにいるが、こんな埃っぽいところにいたんだと思うと慄然とする。
最初は軽く始めたつもりの片付けが、結局はえらい大事の大掃除となる。

今日は台所の換気扇が高いところにあって大変だというので駆り出された。
これもファンなど洗い始めると、なかなか油汚れがとれなくて、そのうち手袋をするわ、湯を出すわ。洗剤の湯でもなかなか取れないとなると束子を出せだの、細かいところは歯ブラシだとか注文が多くなる。
結局台所全体を汚しまくったあげく、掃除するのはファンだけでは済まなくなった。文字通り台所の大掃除である。

ところで、「大掃除」は春の季語。どうやらお役所の期末恒例行事の名残らしい。今は大掃除と言えば年末が相場で、どこの家も大なり小なり一年の汚れ落としを行う。その年末には「煤払」「煤掃」という季語があり、寺のお堂や仏様などの煤払いのニュアンスがあるが、各家庭で行う大掃除も「煤払」として詠んでも問題はない。
ちなみに、東大寺の大仏さまのお身拭いは夏であるが、薬師寺、唐招提寺はじめ多くの寺では年末に行われる。
一般にこのような年迎えの準備を始めるのを「事始め」と言って、12月13日とされる。大神神社が大門松を立てたり、京都祇園で芸舞妓が京舞の師匠に挨拶に行くのもこの日である。