販促品

もてあます秋の扇の香りかな
秋扇の強き香りをもてあます
手のものをなんでも秋の扇かな

扇子というのは買ったことがない。

たいていは、営業の販促ツール、景品などでもらったもので間に合わせている。
使う頻度もそれほどでないので、けっこう長持ちしているし、機能としてもそれで十分なのであるが、困るのは薫きしめてある香りだ。
それこそ、暑いときには夢中で扇いでいるせいか気にならないが、秋ともなるとその香が「強い匂い」に感じてしまい、狭い室内などでは使うのもためらわれてくる。
何年たってもその香というのは消えないもので、サラリーマン時代に使っていた扇子にも未だにほのかな香水の匂いがする。

他にも、ひょっとした機会にもらった、殺し屋と異名をもつ有名碁士のサインがある本格的な「扇」がてもとにあって、これには勿論香水などついてないが、人前で広げるのにはちょっと恥ずかしいものがあり、結局今は扇とは縁遠い日々になってしまっている。

滅ぼしてはいけない辺境

長老は早よに酒盛村祭

何の役も持たなくなって気楽な身分である。

祭の大方は青年、壮年に任せ、輿を見送ったら宮入までもうやることがない。
となると、社務所の一画で早々と酒宴となる。

片付けがすべて終わって、主役たちの酒宴がようやく始まろうかという時間にはもう出来上がり。
口の煩いのが早々と沈没すれば、あとは若い人たちの無礼講。

こんな緩い時間が流れるところは、「辺境」にはまだあるのだ。

知られざる見どころ

国原は初瀬や當麻の曼珠沙華

今日は榛原の定例句会。

桜井市の初瀬街道は左右に目移りするほどの曼珠沙華。隠国の棚田はさぞかしといよいよ期待が高まったが、案に反してほとんど見られない。
この棚田の曼珠沙華というのは、段々があることによって畦に沿って斜面ができるのがミソで、とくに棚田を下から見上げるときが一段ときれいにみえるのである。
飛鳥の稲淵のような棚田というほどのことはないにしろ、二上山、あるいは葛城山から盆地中央にかけてはなだらかな斜面が続くので、當麻のあたりも曼珠沙華の知られざる名所、あるいは見どころだと思う。
盆地の稲刈りは遅いので、田はまだ完全な黄金色ではないので、黄緑のなかに赤く帯をしめたような景色のコントラストは何とも言えない風情がある。

十四も十五も同じようなもの

待宵の肴はとくにこだわらず
待宵や酔うて知足のなほ遠き
待宵に知足の心ありにけり
待宵の茶粥の釜につきっきり

とっくに終わってしまった陰暦十四日だが。

今月の兼題ということで二つ、三つ作らねばならない。
傍題に「小望月」があるが、名月を前にした夜あるいは月を詠むわけである。
お月見は芋を供えてお団子あげて、それは静かな佇まい。それを待ち遠しい気分で詠むのが本意である。
ただ、根っからの信心不足の罰当たりと来た日にゃ、月見酒の日であるくらいにしか思ってない。
十六も十三も、月が出たといっては酒を飲む。
口実は何でもいいわけで、酒さえあれば肴など何でもいいし、そうこうして今日もほろ酔い気分。
大人はほんとにいいものだ。

紅添えて

牧の声遠くに蕎麦の花日和
牧の香を運びくる風蕎麦の花

うねるような丘が続く。

もうひとつ向こうの丘には牧舎が見える。
独特な匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
もしかしたら、堆肥にするためにどこかに積んであるのかもしれない。

今にも折れそうでいて、いかにもしなやかそうな蕎麦の花が満開だ。
タデ科なので虫はあまり寄ってこないが、蜂だけが忙しそうに飛んでいる。
白い絨毯に、犬蓼の赤、赤とんぼの紅がコントラストをつけている。

国原は真っ白

野分だつ湖に島影見あたらず
国原に畝傍望める野分前

当地には珍しく本格的な台風だ。

小型台風というのは、急に雨風が強くなるから用心しろとテレビで言っていたが、ほんとうにそうだと思えるくらい急な変化だった。
朝に家人を病院に送ったときは静かな雨で、振り返ったら畝傍のシルエットだけが低い雲間にはっきり見えるほどだった。一時間ほどして迎えに行ったときには、もう雨がウィンドウに叩きつけてきて、降りてから玄関までのほんのわずかな距離にもずぶ濡れになってしまった。
ピークであるらしい今は、雨が北側の壁を叩く音がますます激しくなり、隣の植木が我が家の壁にもたれるように風に吹かれたり引かれたりしている。

猫たちも少しは怯えたようにうかがう気配を見せていたが、いまは少しは慣れたようで背中をまるめて寝ている。

朝の送迎のときに、図書館に寄って石牟礼道子さんの著作をいくつか借りてきた。
Eテレの「100分で名著 苦界浄土」に刺激されてのことだが、今まではこの本のことを水俣の企業汚染の告発本のたぐいだとばかり思っていたのが、どうやらそうではなくて、文学性の高いものであること、そしてなにより魂を言葉に置き換えた「詩」であるとの本人の言葉を聞いたからだった。
相当な日本語の使い手らしい。
手許が薄暗いなか、久しぶりにわくわくしながら一頁目を開いた。

いつも早くても午後五時公開としていたが、今日は外が騒がしくてならないのでフライイング気味の投句だ。

紅蓮が命

幾筋の出逢ふデルタや曼珠沙華
幾筋と出会ひ大河に曼珠沙華

例年なら曼珠沙華の群生が見事な時期、その堤防は雑草に覆われていた。

草刈り作業が遅れていたとみえ、今年はもう見られないかと思っていたところ、数日前に除草されたと思ったら、あっという間に曼珠沙華が顔を出してきたのだ。
何と言う生命力であろうか。雑草が覆っているときはじっと伏せていたに違いない。この生命力があればこそ、飢餓のときの「救荒食」たりえるわけだ。今ではこれを食べようなどと考える人はいないはずで、薬用に使うこともなくなったようである。そのかわりかどうか、品種改良もされているようで、黄色だの、白いのが赤いのに混じってさいているところを見かけるようになった。
曼珠沙華と言えばあの「紅蓮」が強烈なイメージの中心にあり、白を見てもぴんとくるものはないが、これも世の流れ。
ただ、俳句の世界ではまだ認知されてないようで、「曼珠沙華」と言えばやはり「紅蓮」なのである。