ロシアンルーレット

極月や赤ばかり減るプリンター

年賀状書きに追われている。

「書く」とは名ばかりで実態は「印刷」なんだが。

早く印刷するために極力文字で済ますようにしているが、黒の文字だけでは味気なさすぎるだろうと、ちょっとした絵を入れるようにしている。
それが意外に赤色のインクの消耗が激しいのだ。黄やマゼンタはまだ交換の必要はなさそうだが、警告が出てカートリッジを換えろと言う。
そのまま継続して印刷してもかなりいけるのは経験上分かっているので、しばらくは無視でいい。

一度、とことん最後までの一滴まで粘ってやると頑張ったことがあるけど、その「時」は一瞬で来た。あっという間に数枚がボツとなって再スタートするのにえらく手間を取らされた。

以来、生来の貧乏性からインクがギリギリもつまで頑張ってみるが、やはり最後は不安に負けて「まだ出るんだけど」と交換したカートリッジを恨めしく眺めているのだ。先に降りてしまったロシアンルーレットみたいなものだ。

偕老同穴

手つなぎの長き影引き冬木立

老夫婦が手をつないで散歩している。

介護という風ではなく、誰の目も気にしないでともに公園の散歩を楽しんでいるようである。
握りあった手は冷たくもなく、きっと暖かいんだろうなと思った。

秋の季語だが

甲州に負けぬ枯露柿摂津から

宝塚の友人そして句友の渓山さんから美味しい贈り物が届いた。

丹波黒豆、そしてしっかり粉の吹いた枯露柿。
いずれも自分の畑で作ったもの、家で干したものである。

秋に丹波黒を携えて正倉院展の帰りに寄っていただいたのだが、あいにく不在していたのを律儀にも枯露柿を加えて新年に間に合うようにとの気配りである。
丹波黒は正月の煮豆まで待つとして、枯露柿の方をさっそくいただいた。
適度な湿り気があって柔らかく、いい具合に粉が吹いている。噛んでみるとほどよい甘味がじわっと広がってくる。我が家でも何度かチャレンジしたことがあるから分かるけど、ここまで見た目も味も本格的な干し柿に仕上げるのはもう本職の技としか思えない。
この分だと、丹波黒も「優秀」ラベルに違いない。

コメントを寄せてくれる「岩ちゃん」も超プロ級ファーマーだと聞いている。
もう菜園のことなど迂闊なことは書けなくなってしまった。

なお、「枯露柿」は歳時記上では「干柿」「串柿」などとともに晩秋の季語。柿を簾のようにして吊して干すのは確かに秋かもしれないが、枯露柿として出来上がるのはやはり冷たい風に当たってからなので、冬という感覚に近いものだと思う。したがって、カテゴリーをあえて「冬」とした。

ほどよい距離感

宿題をしつつ嬰守る炬燵かな
宿題に飽きてゲームの炬燵かな

電気店は久しぶりだった。

年末だというのに大型フロアには客がまばら。
全国チェーンの大型店と言えど経営は大変だと聞くが、想像以上に良くないようだ。
今日は猫どものために省エネ炬燵の良いのがないかと見に行ったのだが、驚いたことに炬燵コーナーは狭い隅に追いやられてしまっている。しかも、かつては炬燵布団とセットの大手メーカー品が競うように並んでいたのが、今はヒーターと炬燵フレームが別売りになっていて高級感からはほど遠いような品ばかり。
かつての家電の雄も白物家電の高級品にしか生き残る道はないのかもしれない。

それにしても、エアコンや床暖房の普及などもあって、炬燵を囲む団欒というのはもう過去の話になっていくのだろうか。
宿題の机代わりになったり、家族全員が足を突っ込んでテレビを見ながら蜜柑を食べたり、トランプ、ゲーム台になったり、ときにはそのままうたた寝のゆりかごに。家族の息づかいを間近に感じ、顔色や体調の変化にもすぐ気づける。スキンシップまではいかずともちょうどいい距離感をもたらす。

これらも昭和の懐かしい風景になってしまうんだろうか。

不格好

着ぶくれの朝の洗顔跼まる
着ぶくれの背はますます親譲り

今日はよく冷えた。

ベッドから起きたら急いでいつもの重ね着。外へでかけない日はその格好で済ましている日もある。ゴミ出し程度ならそのままだ。近所の目も気にならない。
昔に比べれば随分かわったと自分でも思うが、実質的にはそれほどひどいとは思っていないからだ。

ただ、着ぶくれたままでは洗顔など水を使うときが不都合で、袖口の始末が悪いのには困ってしまうが。

季語と遊ぶ

狐火や昔話の読み聞かせ
狐火を見たと言うては呆れられ
狐火の寝物語に寝もやらず
狐火や峠の馬の霊鎮め
狐火や旅人供養五輪塔
狐火やあまた眠れる行き倒れ
狐火の峠越ゆべく早立ちす

何とも厄介な兼題である。

これともう一つの兼題と合わせ七句出すのは頭が痛い。
思いつくままに並べてみたが、水準に達するには難がありそうだ。
季語と遊ぶような気持ちで向かい合えればいいのだが。

中世の遺構

はや鷺の嗅ぎつけて来し池普請

池普請とは、池の水を抜いて掃除や石組みなどの修理などをすることをいう。

冬の季語とされるのは、「水涸れる」ともいわれる水の少ない季節であるのに加え、養殖池などでよく育った鯉などを浚う時期とも重なるからであろう。
大きな池になると、水を抜くだけでも数日かかるかもしれない。
掲句は、池の魚を狙ってその水の引くのをじっと待っているという光景である。

池普請が主目的でなくても、灌漑用水の溜池を利用してヘラブナや鯉などの養殖池にしている場合は、田に水が必要でないこの時期に池の水を抜いて大きく育った魚を掬うところもあるようである。
養殖業者だけでなく地域の人たちが多く集まって魚を掬う池もある。
このような溜池は水の少ない地方、とくに四国などではよく見られるという。

中世の遺構あらはに川普請

港の遺構、舟の構造材などが出てきたのかもしれない。
そう言えば、先日に長浜では琵琶湖を行き来した平安後期の船の部材の一部が見つかったと言うニュースが。