石光寺の寒牡丹

藁苞を編むも住職寒牡丹

石光寺の寒牡丹が旬を迎えている。

中将姫の曼荼羅で知られる當麻寺近くにあり、最古の石仏、中将姫が蓮の糸を染めたという井戸でも知られるが、やはり花の札所としての顔、なかでも寒牡丹が有名であろう。

寒牡丹と言っても、寒の前の今がピークでさして広くない庭に36種300株が咲いている。
この時期なので霜や北風から守るために藁苞をすっぽり被っている姿には可憐な風情がある。

春の牡丹や芍薬など庭園ところ狭しと花が植えられているが、これらの手入れは住職手ずからのものだそうである。當麻寺に行くならこの石光寺もぜひ足を延ばしてみたい。

フラワーロードを行く

見慣れたる景の一変大黃葉

平群谷の雑木紅葉が今年はいつになく素晴らしい。

平群谷とは、南アルプスと日本アルプスにはさまれ天竜川流域を伊那谷と呼ぶように、生駒山地と矢田丘陵にはさまれた竜田川(実体は平群川と言ったほうが似合う)流域を筆者が勝手に名づけたものだ。
生駒へ用があって車で走らせたとき、左右の山があまりに見事な黃葉だったので、帰途は生駒山地の中腹を貫いているフラワーロードと呼ばれる農道へ遠回りしてもっと間近に見てみることにした。

生駒山地の稜線を見上げるようにして走るドライブは、まるで信州かどこかの山の中を行くような感覚だ。家から10分と行かない場所にこんなにスケールの大きい黄葉の景観が楽しめるとは。

このなまめかしい雑木黄葉はいわゆる冬紅葉ではない。雑木の黄葉とは今が盛りのようである。

ここだけ歳晩

がらり戸にリースの町家はや師走

洒落た町家があった。

見た目は町家だが、なかは建築事務所とある。
おそらく町の景観に溶け込むような意匠にした建築事務所兼自宅なのであろう。
通りに面した部分が車庫、その奥が前庭風、これを和風の格子戸風扉でカバーしている。日常の出入り口となっているのが脇のがらり戸らしい。
がらり戸とその奥はきれいに掃かれていて、住む人の感性を思わせる佇まいだ。

建物も町家風だが、がらり戸の格子にはクリスマス用とも思われるバラのリースが早くもかけられて、まだ師走の街騒が感じられない奈良町にあってここだけは歳晩風景を醸し出している。

廃家となって取り壊される町家も見られるが、旧の風情を残した新しい袋に新しい酒が醸されているのも奈良町の今日である。

歓迎すべきこと

奈良格子奥に小暗き冬座敷

奈良町を歩いていると「奈良格子の家」として公開されている家に出会った。

通りに面した部分は角を荒く削った太い格子によってめぐらされている。
建物との距離は10センチ以上はあろうか。
これは、かつて春日大社の神鹿が神域のみならず街中も徘徊していたので、建物も鹿も保護するのが目的で考案されたものだそうである。

この日は格子の内側の戸が開かれていて、通りから鰻の寝床のように奥行きのある町家の座敷の奥まで見通せるようになっていた。うす暗い三間くらいの続き間の先にははっきりと坪庭が見通せる。

外人観光客数人が訪れていて、このような古い町家にまで外国人が関心を寄せるようになったのに驚く。有名観光地一辺倒のサイトシーイングから地に着いた文化への関心へ。
インバウンド消費もいいが、文化を通しての日本理解が進むこともまた大歓迎である。

元興寺

凩の鰐口なぞる奏かな
萩枯るるままに僧房静まれる

元興寺極楽坊跡を訪れた。

凩ほども冷たくはない風が騒いだかと思うと、堂の正面の軒に吊した鰐口が微かに鳴った。
鰐口というのは神社などにお参りしたときに鳴らすあのジャラジャラである。
綱には長い五色の領巾がついており、これが風にあおられて綱を揺らし鰐口に撫でるような触れたのである。

もう一回聞きたいとしばらく佇んでみたが、音はそれっきりだった。
気を取り直して堂の周囲を見回してみると、大きく広がった萩がまさに枯れようとしている。
そう言えば、ここは萩の寺。
元興寺は元々法興寺(飛鳥寺)から平城京に移築されたもので、堂の瓦には当時のものがまだ使われている。時代を経て何度も修復されたのだろう、時代時代の瓦も混じってまだら模様になっているのがちょっと離れたところから眺めるよく分かる。

戦乱で焼けた跡は強力な後援者もないまま人々が住み着き奈良町の元になっている。

朱印所の小屋に覆いかぶさるような南京櫨はすっかり葉を落とし、小さくて白い実だけがはっきりと見えた。

得んとせば

奈良町の坂町と知り小六月
奈良町の坂慈しむ小春かな

毎月第一火曜日は定例の吟行。

12月は奈良町の歳晩風景、1月は東大寺・春日大社の新年風景と決まっている。
毎年のことなので句材も尽きるのではないかと思われるが、日付、曜日も違えば、天気も違うわでメンバーが拾い上げてくる句には新しい発見に満ちている。

たしかに、奈良町には坂が多いことをあらためて知ったのも今日のことで、なるほど句材というものは探せば何処でも幾らでも見つかるものなんだろう。
犬も歩けばではないが、兎に角外へ出さえすれば何かに突き当たるということか。これを敷衍すれば行くところすべてに句材があり、出たけど句材が何もなかったというのは単に観察が足りないか、あるいは臨む姿勢が問われていることを自ら晒しているにすぎないのかも。

つかの間の

欠伸する赤子の薄着小六月

立ち話の寒さも忘れるくらいだった。

気がついたらいつもとは違う南風だ。
赤ん坊も驚くくらい薄着だし、少し動けば汗ばむほどだ。

こういう陽気は当然長くは続かないが、それだけにありがたいと思う。