竹の里で

小流れにかすかに揺るる白睡蓮

今月の吟行は6月にも行ったことのある生駒市の高山竹林園。

丘の斜面にもうけられた園には流れがしつらえられており、ところどころ流れをとめて池となっている。池には蜷がびっしり這っていたりして、季節には蛍が飛び交うのではないかとも思われる。
狭い池にはポツポツと睡蓮も咲いていて、開ききった花がその下を流れる水によってかすかに揺れていたりする。

数奇な

立退の決まりし垣の灸花

なんと可愛い花なんだろう。

ただ、その名を聞くだに目をそむけたくなるのが気の毒である。
「へくそかづら」。
枝や葉をさわると臭いからといって名付けられたそうだが、そういう性格だろうか、荒れ地に生いるイメージがあって俳徒からは数奇な目で見られる季題である。

平群町へ抜ける県道をよく使うのだが、大型は通行禁止の道路で両側には古い住宅地が迫っていて大変狭い。そのわりに交通量が多いので、随分長い時間をかけて拡幅される計画があるようで、ところどころ廃屋のまま、あるいは更地になったままで立ち退きを待つばかりの風情である。
そんな一区画の垣に白い花に紅い紅をさしたような灸花が垂れていたのであった。

苦行

街灯の届かぬ路地の虫浄土

涼夜である。

この住宅地はまだ空き地もあって、雑草も茂っているせいか、窓を開けたまま電気を消して目をつむっているといろいろな虫の声が聞こえてくる。たいがいはコオロギだろうが、馬追やキリギリスも。さすがに鈴虫、松虫は聞かれないが、夜気がもう十分涼しいのでこれら普通の虫の声だけで十分浄土に身を置いているような錯覚にとらわれる。
その浄土の中でいい句が授からないか、苦吟している時間は苦行とは感じないのである。

秋動き出す

陵はねむり木の実を太らしむ

天武・持統天皇陵へのアプローチは畑である。

陵はこんもりした丘の上にあって、周囲を見渡しても同じような景色が広がっているだけの何の変哲もないような場所だ。周りには住宅が数戸だけという、本格的な中央政権を打ち立てたひとたちの陵にしてはすこぶる地味な感じである。
アプローチの両サイドには柿が青々として、斜面には大きな栗の木があり青い毬がもう随分大きくなってきている。

あと一月くらいすれば、秋の色に染まって幾らか彩りをますのだろうか。

想像と創造と

お百度を踏むも巡るも今日の露

朝起きて初露かと思ったが、雨の跡だった。

ただ、そろそろ露が降りてもおかしくない時期だ。折からの長期予報では、来月上旬は気温も低いらしい。秋雨前線が居座っているあいだは露は見られないだろうが、そのうち一面の露景色に驚く朝もあろう。

露というのは歌にしても句にしても、題材として古今より数多く詠まれてきたものであり、想像もかきたてられるものがある。掲句にしても、もとより信心こころの薄い自分でも一応形にはして見せられるだろう。
ただ、それが詩心あふれ文学性が高いかどうかは全く別物ではある。

この秋は、何度か「露」にチャレンジしてみようと思う。

稲作

孕み穂のたちまち開き稲の花

稲の花の開花時間というのはごく短いそうである。

目に見える白い花のようなものは、たいがいは受精が終わったあと籾が閉じている状態で、雄しべが取り残された状態のことが多いという。
とは言え、数日かけて先端から開いていくので、うまくすると開花状態の稲を見ることができるかもしれない。

毎年のように異常高温が続いたり、今年などはカメムシが大発生するなど農家にとって障害は多いが、開花からしばらくの間の生育次第によって出来不出来が決まると言うから、一番の勝負時ということになる。