佐保川に沿って

町の名は在りし日のまま金木犀

奈良市・近鉄「新大宮」駅近くの年金事務所で亡母の年金整理をしてきました。


事務所が佐保川の畔にあったのでそのまま川に沿って上流に向かって歩いてみました。しばらく歩くと汗ばんできましたがちょうど両岸の桜紅葉が始まったばかりで、葉が散らずにうまい具合に木陰を作ってくれるのが心地よいこと。以前に当地には川辺の桜並木が少ないと書きましたが、ここだけは例外のようです。さらに歩き進めると、きれいに刈り込まれた金木犀の生垣があったり、家持の歌碑があったり、蛍の餌となるカワニナを放流していたり、地域のひとたちに愛されている川だということがよく分かります。

ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも・・・大伴家持 万葉集巻六 九九四

奈良女子大を過ぎてなお川沿いを歩いて行くとほどなく転害門が見え、その手前に西包永(かねなが)町に出ます。旧住所名が残されている地域でほんの100メートルほどの筋を南北にはさむ町です。実は、ここは亡母が10歳まで生まれ育った町で、亡くなる前に必ず連れてこようと思った場所なのです。約束を一度も果たせなかったのが悔やまれますが、母が幼少時代を過ごした場所を私もこの目で見届けたかったのです。
通りかかったところ、たまたま母と同年配と思われる婦人が家から出てこられたので声をかけてみました。生まれも育ちもこの西包永町だと言われるので、もしやと思い年齢を尋ねると母より4歳若くやはり母のことは知らないとのことでした。ちなみに「包永」とは鎌倉時代この地域にいた有名な刀鍛冶の名前だと教わりました。

生きた証

朝寒や回収袋の遺品かな

病院からそのまま着の身着のままで我が家にやってきた母。

葬式を終えたばかりの朝、すでに遺品となったいくらもない衣類が無造作に黒いポリ袋に放り込まれていた。

納棺

生前の母が欲せし蒸かし芋

食べたくても食べられない辛さ、苦痛が最後に待っている人生。

母を退院直後我が家に引き取ったのだが、すでに流動物以外は食べてはいけないと言われていた。腸が処理できないからと繊維質の植物も禁止だったので大好きな芋類も御法度だ。心の中でご免ね、と思いながらいつも同じような食膳を用意するしかなかったのだが文句も言わず食べてくれた。

テレビで芋のニュースが流れたときのことだ、「おいしそう」という声がもれたのは。大好きだった甘いものに加えて、蒸かし芋も一緒に納棺してあげた。

ヘッドライト

山峡の夕暮れ早し柿一本

曽爾高原からの帰途R369を走る。

山あいを走る道はぐんぐんと暗くなってゆく。誰も手をつけないのか、民家の庭に黄色い実をいっぱいつけた柿の木が目にとまる。

快晴無風

芒野や子狐ぴょんと出るかもね

天気があまりにもよかったので、思い立って曽爾高原の芒が原の夕陽を見に行った。

曽爾高原へは本伊勢街道の三重県境手前でちょいと逸れるのだが、もう午後3時は回っているというのに大変な人出だ。亀の山という亀の甲羅のような形をした山の裾がすべて芒の原っぱで、真ん中にある亀の池という湿地帯をぐるりと囲うようにある遊歩道には午後9時まで灯明がともされるらしい。兜岳に沈む夕陽を逆光にして芒を撮り終えたカメラマンたちはさっさと帰り支度をしているのだが、若いカップルたちはまだまだ帰ろうとしない。

芒の原に立ち入ってカメラにポーズをとる小さな姉妹は、まるで芒の原で遊ぶ子狐さんのようでとても愛らしい。

放射冷却

共稼ぎ世帯に火点す宵寒露

真っ暗だった共稼ぎ世帯の窓がぱあっと明るくなった。

先に帰宅した人が真っ先に洗濯物を取り込んでいる。屋根のあるサービスヤードだから夜露には当たらないが、地面はすでにしっとりと湿気を含んでいる。明日朝の予報では放射冷却現象で盆地は冷えこむと言っている。そうなるとあたり一面は露がのっているのだろう。

丹波の黒豆

枝豆の薄皮黒し丹波もの

丹波の黒豆を夏至の頃播種したものが、ちょうど収穫時期を迎えた。

とりあえず枝豆用にと2本ばかり抜いてきたが、やや黒味がかった薄皮に包まれて大きな粒が鞘におさまっている。食べ頃を過ぎたかと心配していたが思ったよりは柔らかい。この分だとあと1週間ほどずらしても問題ないだろう。
ただ、残りは煮物用にとっておく予定だ。