名実

春深し妻は無心に豆を剥き

毎日毎日エンドウが食卓にのぼる。

絹さや、スナップエンドウ、いずれもいまが盛りだが、好みでいうと絹さやの方が好きだ。それもあれこれ手を加えないさっと茹でただけのサラダがいちばんいい。これなら日に三回でてきても飽きることはない。
いまは未熟な豆を莢ごといただいているのであるが、まもなく実豆が食べ頃を迎え主役交代となる。実豆は実豆で豆飯がうまい。明日六日は立夏。名実ともに夏となる。

習慣化

春眠をなでゆく猫の息吹かな

眠い朝が心地いい春である。

その深い眠りをむさぼっているうちに、やがて猫に鼻息をかけられれば終わることになる。
家人にたたき起こされるに比べると憎めないのがいい。うつらうつらしながら猫の喉などをあやしているうち、不思議に目が覚めてしまうのである。
目が覚めたらつぎは朝飯を早くせいとあおられるのであるが、いい意味で一日のリズムをきざむ第一歩となる。あとは自然に体が動いて、猫トイレの交換、同掃除、そしてその間用意してもらっている朝食のテーブルにつく。そのあとは身支度をととのえ、勤行、猫のブラッシング、部屋の掃除、ゴミの日はごみ出し。毎朝この繰り返しである。どれかひとつでも順序が狂ってしまうと、なかなかリズムを取り戻せない。そのくらいルーチン化、習慣化しているわけだ。
これらが全部終わるのが八時半頃。ようやく自分の時間となるのである。

内と外

楢枯の騒動止みて樫若葉

生き残った樫たちが遠目にもはっきりと花をつけたようだ。

この2,3年ほど酷い楢枯に襲われて、このあたりの樹齢の進んだ楢などが多く枯れてしまったが、生き残ったのを誇るように樫などが全身クリーム色となって山腹のところどころをせり上げるように咲いている。
若葉が日一日と色を濃くしていくいっぽうで、樫などの仲間がモザイクを染めるように山を彩り、いかにも初夏の山の様子である。
日差しもずいぶん強くなって、戸外に長くいる場合はサングラスが必需品。帽子もキャップから、麦わら風の素材のパナマ帽へと変化。家の中はまだまだ春のようにマイルドに過ごせるが外との行き来は大変で、そのたびに服装を換えなければならないのは困ったことである。

皮膚感覚

農鳥の不尽に八十八夜かな

立春から八十八日目の今日。

富士山山梨県側に農鳥が出現したというニュース。
いわゆる雪形で、ふもとではこれが出現したら田植時期だとされてきたそうである。
知人の話では山間地の大宇陀ではもう田植が始まっていると言う。ゴールデンウィークに入ればまもなく立夏。八十八夜は春と夏の端境にあり、遅霜の心配もなくなる頃だとも言う。その通り、明日からは最低気温も切り上がって暖かい日も期待できそうである。
夏野菜の第一弾のトマト、ナスを昨日植えたばかり。皮膚感覚でも霜の怖れがないことを分かっていたようである。

気まぐれ

春時雨匂はせ上手聞き上手

実際にはもう夕立というべきか。

肌感覚はもう夏なのである。
ただ暦の上では春時雨としか言いようがないのであるが。
夕立は激しい、叩きつけるような雨を想像するが、春時雨は空も明るい優しい雨で、少々濡れることなど気にならないような降りっぷりであろう。立ち話をしていてもあわてることのないような、そんな雨である。
夕方家の近くまで来てぱらぱらときたのであるが、急がず慌てず今日の後片付けを終了してから家の中に入る余裕がある。いかにも春の雨だなあと思っていたら、そのうち本降りとなってきた。春の雨とは気まぐれでもあるようである。

ハプニング

日干しせる猫のトイレの天道虫

砂の上を赤い虫がうろうろしている。

天道虫である。
砂は室内の猫トイレのもの。
毎日雨でないかぎりは日干ししては夕に取り組む。紙の粒でできているので湿度は禁物なのである。
彼の虫は、日当たりのいい砂場でぬくぬくと過ごしているうち、うっかり室内に取り込まれてしまったと見える。
猫トイレの管理で梅雨時が一番厄介だが、たまにこうしたハプニングがあるのもまた愉快である。

やりすごし

親不知育ちつつある春愁ひ

昼寝から目覚めると頭痛がする。

久しぶりのことだ。
ただ、これは普通の頭痛ではなさそうである。
顎を動かせば右奥歯の上あたりから頭の天辺にかけて鈍痛が走るのだ。唾を飲み込んでも同様である。
ここのところ奥歯で固いものが噛めなくなっていて、虫歯なのかそれとも歯周病の悪化か、自分では判断つかない状況が続いている。明日まで様子を見てみようというのを繰り返しているが、今日のような鈍痛は初めてである。
とりあえず痛み止めを飲んで今日のところはやり過ごそうと思う。