桃源郷

伊那谷の桃をはぐくむ水なりや

ここ数年毎年中元としていただく飯田の桃がおいしい。

それは大きな桃で甘さも十分、店で買えば相当な値段だろうと思われる一級品である。
桃は傷みが早いので、盆棚に毎日一個を捧げてはさげて冷蔵庫にいれて冷やして食べる、この期間10日くらいは続きなんとも贅沢な日々なのである。

山梨や岡山、福島県などは桃の生産地として知られているが、長野の伊那盆地もまた桃の名産地であったとは知らなかった。アルプスからの水が豊富なこと、天竜川をはさんで川霧とか冷涼な空気とかかわっているんだろうか。
伊那谷の澄んだ青空を思い浮かべながら今日もまた一個家人と分けて食べた。

はるか南の海に

野を分きてくるもののふるさと思ふ

台風11号は日本海へ抜けたらしい。

この台風は雨の台風と言っていいだろう。
そして紀伊半島、なかんずく三重にずいぶんな量の雨をもたらした台風というものの、海から水を吸い上げるパワーというものに恐れすら感じるものがあった。
もちろん、雨だけではなく風もあったわけだが、このような荒ぶる自然、自然現象というものはすべて海から生まれたということにである。

海があるからこそこの地球に生命が存在し、我々人類の今日があるのだが、その人類を含めたこの世の目に見えるものを破壊し尽くすことができるのもまた海から生まれるものであるということをあらためて思わざるを得ない。

立秋を告ぐ

虫の声呼ばんと窓を放ちけり

この朝キリギリスが窓のすぐ下まで来てくれた。

思わず窓まですり寄って耳を澄ます。
大きくくっきりとした声だ。
猫たちには姿が見えるのかしきりに一点を見つめている。

いつもは隣の空き地や、庭の草むらなどで鳴いているのが、どうしたことか今朝に限ってすぐそばまで来てくれたようだ。立秋だよと告げに来てくれたのかもしれない。

一足早い秋

山村の岩を堰とすプールかな
寒村の水場に遊ぶ子のなくて

吉野川源流・高見川のあたりに吟行した。

このあたりは東吉野村といって、かなり前から俳人・俳徒にとって聖地ともされる村である。村内のかしこに著名な俳人の句碑が建ち、多くの俳人が訪れる。そのなかでも、「天好園」という山の宿を知らぬものはもぐりだと言われるくらい有名な館で、ここで句会もよく開かれている。
属する結社でも昨年5月余花の頃にここで吟行句会が開かれ、ことしは万緑、というより晩夏の時期に訪れることになった。

山の奥で、清流は流れているし、蝉や虫の声、いろいろな草木もあるので四季折々に句材には尽きないものがありそうだ。

青芒活けて迎へる山の宿
青芒深山の客を迎へけり

かなり奥になるので大和盆地に比べ随分涼しい。昼頃には天気もずんずんよくなって青空が広がり流れる雲も高い。ここには一足早く秋がきているようだ。

ちと早い盂蘭盆会供養

二枚目の棚経僧の声もまた

今日は母の菩提寺から僧が出張ってこられる盂蘭盆会の供養日。

棚経とはお盆の時期に檀家を一軒一軒まわって仏壇の前などで経を読むことで、秋の季語である。
大変立派なお寺なので檀家も多いだろうし、うちは檀家とはいってもお寺から少し離れているので、毎年この地域をまとめて廻っておられるようである。

この棚経の僧は永平寺の要職についておられて不在の住職に代わっていつも来てくださる長男さんで、女どもは口を揃えて美男だという。法衣姿も絵になっているが、読経の声もよく通り実に涼やかである。熱注意報のさなかの日中に汗ひとつかかずにお出でになり、お帰りになるときも颯爽として車に乗りこんでいかれた。

口に広がる

辛きばかり当たる日の獅子唐辛子

今日は大丈夫かな?

最初の一口はおそるおそる噛んでみる。ああ、大丈夫だと思うと二つ目からはがぶりといただく。そのあとは大概は大丈夫なのだが、たまに一口噛んでたちまち辛さが口の中に広がろうものなら大騒ぎである。
それが、一度ではなく二度もあったりすると、もうダメである。どこそこの店ではもうシシトウは買わないといきまいたり、文句の一つも言ってやれとなる。
辛いのに当たるのはたいがいシーズンはじめではないだろうか。

唐辛子は秋の季題だそうである。あの赤い実の唐辛子なら確かに秋でも良いが、シシトウとなるとどうかなという気はする。一方、万願寺唐辛子は春だそうである。