難題を楽しむ

この浦に嫁してこのかた磯竈
おうさつと読ませる浦の磯かまど
磯かまど磯着に魔除縫ふてあり
磯竈ウェットスーツの時代でも
家族より世代どうしに磯竈
磯竈編むも翁に限られて

本日の例会(欠席だが)の兼題の一つが「磯竈(いそかまど)」。

主宰の言うとおり現地を踏んで詠むというのが正統で、実際に取材に出かける人もいて先輩方は真剣に取り組んでおられるようだ。
一方の私はというと、三重の出身とは言え、未だに志摩に残る風習だときいても知らないものは知らない。去年のあまちゃんブームで海女を取り上げる番組も多かったようで、志摩の海女の独特の魔除け、「セーマン」「ドーマン」の判じ物めいた縫い付けのことを知ったのもそういう番組であったような気がする。

手抜きではあるが想像して作るのも一興という感覚でいくつか詠んでみた。

追)それにしても「竈」という字。ワープロだから書けるが、紙にとなると画数が多くて枠には収まりそうにない。さらに書こうにもまずはよく見ないと書けないわけで虫眼鏡は必定となる。ところが、こういうときこそスマートフォンなら簡単に字が拡大できるのがすこぶる便利だなあと思う。

頭上にて

竹林のそよりともせず目白くる

散歩コースには開発からまぬがれた小さな森が点在している。

どの森も紅黄葉の時期を過ぎ、これからは鳥たちの声が楽しめるようになる。今日は姿は確認できなかったが、キリキリキリと鳴くメジロ特有の声を今年初めて聞いた。

やが毎日頭上で目白たちの声を聞きながら歩く日々がやってくる。

里の鳥

アンテナのぷるんと震へ鵙の消ゆ

久しぶりに鵙に出会えた。

だが、ちょっとよそ見をしたらもう姿はなかった。あとは、止まっていたアンテナがぶるぶると震えているのみである。

元興寺小塔院跡

からたちの実の涸ぶりて門鎖す

からたちの実の錆びしまま無縁仏

もと元興寺の伽藍跡地で残されている数少ないもののひとつである。

荒寺に哀れをさそう遊女の墓があるというので案内してもらった。話では、墓というよりはただの石塊ばかりであまりにかそけくて言葉もないという。
残念だったのは、どういうわけか今は私有地になっているとかで、中へ入れてもらえない。「史跡元興寺小塔院跡」という案内表示板があるのにである。
何だか割り切れない思いに立ち去りがたくいると、跡地に続く道には葉の多くが落とされてやや黄をおびた棘ばかりがめだつ枳殻の生け垣が続いているのが目にとまった。その棘に守られるように直径二センチほどの実が成っているのだが、もう萎びてひからびそうになっていた。

グルメな鹿

神鹿の召さぬ団栗あまた降り

鹿食はぬまま団栗のあまた落つ

奈良公園
久しぶりに「まほろば句会」に参加した。

夏に入院して以来、本来はふた月前に復帰すべきところずるずると休んでしまっていたので、ひとまずは休み癖にケリをつけた格好になる。
今日は師走のならまち風情などがテーマだったし、今のシーズンは朝の鹿寄せも行われているのでいつもよりは早めに出たが、初めて車で行ったのが大失敗。通勤の渋滞に巻き込まれて着いたときにはもう鹿寄せは終わっていた。この鹿よせでありつける旨いドングリの味を知っているせいかどうか、グルメな鹿たちは公園にいっぱい降っている団栗には手をつけようとはしないのがおかしかった。
奈良公園茶粥のおふるまい
鹿よせには遅れたが、ちゃっかりとお振る舞いの茶粥だけはしっかりいただいて来た。奈良漬けをおかづにずるずると茶粥をすすったあとは奈良町へ。

ご来迎?

照紅葉茜と映ゆる阿弥陀堂

浄瑠璃寺阿弥陀堂の回廊

浄瑠璃寺阿弥陀堂裏の回廊が朱く染まっている。

一本の真っ赤な紅葉がお堂の裏手の点景となって、それがほの暗い回廊や壁を朱く照り返しているのだ。実相院の床紅葉ならぬ浄瑠璃寺の回廊紅葉だが、まるでご来迎の暁を思わせる雰囲気なのだ。

まちまちに

黄落や高度成長知る身にも

信貴山麓の町の紅葉は美しい。

その麓をぐるりと取り巻くように、高度成長期の頃完成したであろう住宅地が大和川を見下ろすように段をなしていて、街路樹も立派な楓の類だのが大きく成長している。どういうわけか、街路樹の黄葉の進み具合は一律でなくて、まだ青いものがあったり、はたまた黄色ではなく真っ赤になったものもあったりで、舗道の下を這っている根の状態によってこのような差があるのだと思われる。