庭仕舞

冬蟷螂斧振る意志のなかりけり

庭の冬備えをした。

霜にやられないように観葉植物などを取り込むのだが、これが歳とともに意外に大変になってきた。なにしろ直径30センチに相当する10号鉢などは土の重さだけでも相当な重量である。これを何個も庭から室内に持ち込むのである。さらに、子猫にいたずらされそうなものは2階に待避させなくてはならない。

2時間ほどかかっておおかた終わると、今度は庭の後片付けが待っている。蘭の日覆いのネットを外そうとしたら、そこにカマキリの卵が産みつけられていて、主と思われるカマキリがにょっきり顔を出してきた。おなかの辺りがずんぐり丸く太っているのでおそらく雌なんだろうが、寒さのせいかいかにも鈍重な動きで、指をさしだすともそもそと乗ってきた。
なんだかカマキリに悪いことをしたような気がして、そのまま茂みにそっと放してやった。

冬準備

田仕舞の煙りの高く平群谷

これを谷と呼んでいいのかどうか。

ただ、南アルプスと中央アルプスに囲まれた天竜川沿いの土地を「伊那谷」とか「伊那平」と呼んでいるように、平群の里も西は生駒山地、東は矢田丘陵にはさまれた土地で、北の生駒市に接するあたりの竜田川が深くえぐれてそこから大和川合流まで南下しているさまなどは伊那谷の天竜川を思わせ、この一帯をどうしても平群谷と呼びたくなってしまうのである。

ある小春日、この谷を南北に走る近鉄生駒線の車窓から平群谷に幾筋もの煙が立ちのぼるのが見えた。間近のはどうやら籾殻を燻して燻炭を作っているようである。冬準備に追われる里の一齣であった。

補)「田仕舞」を季語とする歳時記はあまりないようである。ただ、今年の田仕事の全てを終えたいま、冬を越し来春のために田をかたづけると言う作業の尊さを考えると、これが季語でないとする考えは理解できない。

自由律の句碑

行き暮れてすすきの原や碑の一基

思いたって曽爾村屏風岩の紅葉を見に行った。

ピークは過ぎた感があるが、それでも十分見応えある眺めである。
紅葉の屏風岩
1台通るのがやっとという急坂をあえぎながら車は上る。ついた先が「屏風岩公苑」。標高700メートルあまりだろうか、大変眺望がきく台地になっている。
しばらく散策すると、みたところ文学碑らしい古い石碑がある。文字は苔に覆われていたりして裏の昭和9年建立とだけしか読めない。文字数から推して句碑かと思われたが、果たして帰宅して調べてみると、自由律俳人の尾崎放哉、種田山頭火らと並ぶ大橋裸木(おおはしらぼく)の「日盛りに木の立ち木のかげ」が層雲同人会によって建立されたものだった。

大杉玉

今年酒終始破顔のアナウンサー

今日は大神神社の酒まつり。

新酒の醸造安全祈願するお祭りで、重さ250キロもあるという大杉玉が掛け替えられる。参列の酒造業者はそれぞれ小型の杉玉を持ち帰って、新酒ができた印しとしてこれを軒先につり下げる。

夕方ニュースで現地からレポートする女性アナもどうやら飲兵衛らしく、新酒の味、香りを細かくレポートしながら終始笑顔である。

いのち満つ

キャンバスに満る命の水澄めり

澤口先生の個展初日である。

同窓会関西支部仲間が先生を囲んで食事会をするという連絡をもらったので、迷わず仲間に入れてもらうことになった。
先生は2度の大病を克服されたあと今年も意欲的な作品の多くを出品され、ご健在なことがうかがいしれたわけですが、なにより印象的だったのは、泉からほとばしる水がキャンバスから今にもこぼれそうな「満ちる水」と題された絵に「命の躍動」そのものを感じたことであった。躍動、すなわちエネルギーであり生命力を象徴する。これはまさしく先生のみなぎって止まない「満ちる命」なのである。

季節便り

紅葉のテレビ中継箸止まる

ありがたいことに、この時期各地の紅葉の模様が放送される。

我が家では行儀はよくはないが食卓でもテレビが見えるように設えてある。ときどきの各地の便りは朝食の時間帯に放送されるときが多い。季節の便りが流れると、家人に声をかけたり、テレビに見とれてしまって箸が止まったり。ニュースをたねに朝の話題が盛り上がると、その日はスタートからして気持ちいいものである。

これからは牡蠣とかズワイガニのニュースなんかも流れるんだろうな。

お気に入りの街路樹

公園の行く秋雨の見るばかり

雨の公園は誰もいなかった。

ただ、桜、欅などの紅葉、黄葉がピークを迎えようとしている光景を、クルマで通りかかった目は見逃さなかった。樹齢からして20,30年は過ぎていると思われる木々が広い公園に枝を広げられるだけ広げ、強烈な色の濃さの衣装をまとっていることを。
おそらく明日もまた臈長けた紅葉を見せてくれるだろうが、今日のそれとは別のものに変容しているに違いない。

この時期になると、その街の銀杏並木を楽しみにしているのだが、夏の伐採で裸同然にされてしまった銀杏は昨年の面影をすっかり無くしているのを見て悲しくなった。