消えゆく言葉

新藁の形とどめぬコンバイン

「稲架」なんていう言葉はいずれ歳時記の中にだけ存在することになるのではないか。

新しいノートブックPCにATOK2012を入れたが「はざ」でも「はさくい」でも「稲」に関わる用語は全く候補として出てこない。俳句を詠むということはある意味で日本語や日本の風習を守ったり伝えたりすることであろうし、稲架も日本には残ってもらいたい風景の一つで、せっせと毎日俳句を詠むのもそんな言葉、風景を大事にしたいからである。

1日で終えられたとみえる稲刈りのあと、共同作業小屋の脇には細かく粉砕された稲藁が山のように積み上げられている。このあと田んぼなどに撒かれるのだろう。稲藁がなくなって困るのは家庭菜園などの敷き藁である。乾燥や病虫害防止のため根元に敷き詰める稲束が必要なのだが、今は手近な所では手に入らない。ホームセンターなど行けば一束2,000円以上の値段で売ってるが、どこのどういう素性のものか不安で買う気がしないのである。

町歩き

築地塀そぞろ歩きの通草かな

奈良きたまち歩きのご婦人方が足を停めて塀越しの通草を愛でている。

熟するまでには至ってないが見事な房なりである。

同級生

無患子や無骨な色は固き意志

何年か前のことだが鎌倉山頂上付近の店先で無患子が無造作に並べられていた。

このときは恒例の同級生によるハイキングの会で、台湾リスが想像以上に跋扈していたり、友人が手に持ったお握りを鳶にさらわれたことなど、いろいろ思い出多いのだが、歳時記をぱらぱらとめくっていたら冒頭の光景がフラッシュバックしてきたわけだ。

明日母校の同窓会、今晩は前夜祭のすき焼きパーティの予定だったが、喪中の身ゆえ。

大きな景色

池の面秋色映えて大伽藍

転害門をぬけて東大寺境内に入ると突き当たりに工事中の正倉院敷地が見える。

その突き当たりで右折して緩い坂を東大寺方面に足を向けると、大きな大仏池に出るがここはどうやら格好のスケッチポイントであるらしい。十人ほどの日曜絵描きさんと思われる人たちがキャンバスやスケッチブックを広げていた。

それぞれの 画布に織り込む 秋の色

池越しに大仏殿の屋根がよく見え、さらに周りの大きな光景を写し込んだ池を手前にした構図は雄大で、絵描きさんならずとも目を瞠るものがある。広い公園にあっては絵描きさんたちもまるでその景色のなかの一素材であるようだ。

佐保川に沿って

町の名は在りし日のまま金木犀

奈良市・近鉄「新大宮」駅近くの年金事務所で亡母の年金整理をしてきました。


事務所が佐保川の畔にあったのでそのまま川に沿って上流に向かって歩いてみました。しばらく歩くと汗ばんできましたがちょうど両岸の桜紅葉が始まったばかりで、葉が散らずにうまい具合に木陰を作ってくれるのが心地よいこと。以前に当地には川辺の桜並木が少ないと書きましたが、ここだけは例外のようです。さらに歩き進めると、きれいに刈り込まれた金木犀の生垣があったり、家持の歌碑があったり、蛍の餌となるカワニナを放流していたり、地域のひとたちに愛されている川だということがよく分かります。

ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも・・・大伴家持 万葉集巻六 九九四

奈良女子大を過ぎてなお川沿いを歩いて行くとほどなく転害門が見え、その手前に西包永(かねなが)町に出ます。旧住所名が残されている地域でほんの100メートルほどの筋を南北にはさむ町です。実は、ここは亡母が10歳まで生まれ育った町で、亡くなる前に必ず連れてこようと思った場所なのです。約束を一度も果たせなかったのが悔やまれますが、母が幼少時代を過ごした場所を私もこの目で見届けたかったのです。
通りかかったところ、たまたま母と同年配と思われる婦人が家から出てこられたので声をかけてみました。生まれも育ちもこの西包永町だと言われるので、もしやと思い年齢を尋ねると母より4歳若くやはり母のことは知らないとのことでした。ちなみに「包永」とは鎌倉時代この地域にいた有名な刀鍛冶の名前だと教わりました。

生きた証

朝寒や回収袋の遺品かな

病院からそのまま着の身着のままで我が家にやってきた母。

葬式を終えたばかりの朝、すでに遺品となったいくらもない衣類が無造作に黒いポリ袋に放り込まれていた。

納棺

生前の母が欲せし蒸かし芋

食べたくても食べられない辛さ、苦痛が最後に待っている人生。

母を退院直後我が家に引き取ったのだが、すでに流動物以外は食べてはいけないと言われていた。腸が処理できないからと繊維質の植物も禁止だったので大好きな芋類も御法度だ。心の中でご免ね、と思いながらいつも同じような食膳を用意するしかなかったのだが文句も言わず食べてくれた。

テレビで芋のニュースが流れたときのことだ、「おいしそう」という声がもれたのは。大好きだった甘いものに加えて、蒸かし芋も一緒に納棺してあげた。