太る

枝さはに乱する風よ萩こぼる

萩もいよいよ終わりを迎えている。

かわって金木犀の香りが届いてもいいころだと思うが、まだその便りは届かない。庭の銀木犀も昨年の思い切った剪定が悪さをしたのか不調のようである。
このじき釣瓶落としに日が暮れてゆくが、同時にまた秋の趣が一気に深まってゆくころでもある。
ニンジンも目立って太りだした。

異色

別院にすすめばゆかし酔芙蓉

芙蓉は中国では蓮のことを指すらしい。

美しさでは蓮にひけをとらないことから「木芙蓉」と呼ばれたとか。
これは漢語に詳しい昭和蝉丸さん(敬称が抜けておりました。失礼しました。)にただしていただかればならないが、芙蓉の中でも酔芙蓉とはなかなか妖艶な語感を伴うものである。朝には白く咲いていたが昼頃には目にもはっきりわかるほど淡い紅をさし夕方にピークを迎える。翌日にはもう花も閉じてすぼまるように眠りいっている。
芙蓉の寺として京の妙蓮寺が有名だが、当地では橘寺が知られている。決して広い境内ではないが、奥の院まですすむと前住職が植えたという見上げるようみごとな酔芙蓉を見ることができる。
橘寺は聖徳太子生誕の地といわれ、飛鳥と斑鳩を往復したという黒駒の像がおかれたりしてよすがをしのぶことができるが、名前の通りここには大きな橘の木が植えられている。寺の名前の由来は、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇に命じられて常世の国の不老長寿の実を持ち帰った橘を植えたことにある。
生臭い歴史の多い飛鳥のなかではひとり超然として異色の存在の輝きを放っている。

楓ほどな

伐採を待つ間の櫨の薄紅葉

南都の沿道には南京櫨が多い。

とくに繁殖力も強いようで奈良公園一帯に我が物顔で進出もしている。
さすがに外来種がこれだけ増えては環境保全にも影響があるということで、これら大木の伐採計画がもちあがり、いよいよ景色が一変しそうである。
とくに目立つのが東大寺大仏殿裏の大仏池付近一帯で、空をおおうほどの大木がずらりと並んでいて、紅葉のシーズンになると厚い深紅の葉がこれ見よがしにひろがる。
それはそれで見事なものだが、やはりどこか異国風で南都にはちと毒々しく映るのである。
古来から紅葉は万民に愛されてきた。桜、欅や銀杏の紅葉黄葉もいいが、やはり楓ほどの大きさの紅葉が里や民家の庭などにはよく似合う。

見栄え

ほめられて色つやましぬ秋茄子

通りがかる人が口々にほめる。

艶、形とも見事にそだてた当の本人も満更ではないようである。
よほど上手に育てたとみえてなかなかの見栄えである。
かけだしの素人ファーマーではなかなかこうはうまく育てられない。
いつかはこんな秋茄子を育てたいものだ。

MRI

象の雲浮かべてかろし秋の空

NHKラジオの短歌番組を聴くともなく聞いた。

題は「象」。
抽象的な歌ばかりで共感をおぼえることもできずすぐにスウィッチを切る。
ちょうどハンドルを握っている時だったので、明るい空には白い秋の雲。それが象の鼻に見えなくもなく掲句誕生。

今日は県下でもちょっと知られた整形外科へ。去年からちょっとおかしい右の肩から前腕にかけての痛み。とくに前腕を内転させたときに痛みが走る。最近は歯磨きの運動さえつらい。
まずは原因だけでもと思ったのだが、どうやら先生ははっきりしない。とりあえず前腕のMRIを撮ってみようとなったが結果はさてどうなるやら、来週の楽しみに。

使い道

竹伐って古墳の裾を明るうす

竹が全体を覆っている。

もはや墳丘の形も覚束ないほど茂るに任せているが、ある日通りかかるとすっかり裾刈りされていて墳丘のおまんじゅうが姿をあらわした。
伐られた竹はすべては持ち帰られることなく散乱している残渣もあるが、古墳にしてみれば久しぶりに風が通ってさぞすっきりした気分であろう。
竹は陰曆8月頃に伐るのがいいと言われそれが季語として定着したのであるが、今では竹の使い道もかぎられ需要もめっきり減ってそのような配慮も顧みられることもまれであろう。

スリット窓

窓枠の影歪みゆく閨の月

夜中に尿意をもよおして気がついた。

すっかりあきらめていた名月だが、あれは3時頃だろうか寝屋のスリット窓からはっきりと月光がさしていたのだ。
月はすでに傾きかけているので、四角の窓の影が間延びしたようにいびつに落ちている。
部屋に戻って窓により見上げたらうすいながらもはっきりと円い名月が空にある。
得したような気分になって蒲団に横になったらすぐにまた眠りに落ちていた。