神々しく

早春や近畿の屋根のかぶりもの

これは某句会で選外だった句。

近畿の屋根とはもちろん大峯の八経ヶ岳のことであるが、遠目でも分かるくらい白く見えるのは実は二月に入ってからである。
冬季はさほど目立った雪が見えないのは、いわゆる南岸低気圧が半島南を通過したときの春の雪の積雪でようやくしっかり降るということだろうか。
したがって、南を見るときに最も楽しみにしている季節というのが春未だに浅い二月なのである。これが三重県境の高見山にも言えて、三千メートル級とはいかないまでもそれぞれ神々しさを増すのである。

膨張

しろ梅の窓にめざめる旦かな

紅の枝垂れのつぼみがようやく動き始めた。

いっぽうの白梅は早すぎるのか、もう満開状態である。
梅というのはなかなか散るものではないが、開いたきりの花が増えると木全体がまるで熱を帯びたように膨張するように見える。
そういう意味では満開というのはちょっと食傷気味になるのだが、やがて紅枝垂れにリレーされるので今度はそちらに視線が移るので櫻などに比べればはるかに長く楽しめるのは花の少ない時期にはありがたい。

首都圏の雪

明日履いてゆく靴のなし春の雪

東京の方では明日の交通が心配されている。

午後には当県の雨も去ったが、今も静岡から東が雪で明日の通勤時間帯の交通混乱が容易に想像される。
東京西部に住んでいた時は、年に一度は春の雪があって、そのうち何年かに一度は家の前を雪掻きしなければならなかった。
そんなことを思い出させる今回のニュース画像である。
積雪具合いを写メで送って寄こした娘は明日の靴がないことを嘆いていた。
その前に、電車が動くかどうかのほうを心配した方がよさそうだが。

いざや

寒明けてやらねばならぬいくつかな

待望の立春、寒明である。

今まで寒いのを理由に先延ばしにしていたことがいくつもあって、そろそろ腰をあげねばなと思うのである。
まず一番は芽や根が動き出す前の移植、剪定・枝更新、寒肥があげられる。
ほかにもいろいろあるが、天気とも相談しながら、ともかく炬燵から出でていざやというわけである。

大寒

いざ春へ出発進行梅ふふむ

ここのところにはかに蕾が目立つなあと思っていたら。

雨の今朝窓から見ることもなく庭を見ていたら、梅がほころび始めているではないか。
昨年もたしか1月下旬に咲き始めたと記憶しているが、今日はさらに早く中旬の最終日の20日。いくらか波があるようだが、年々早くなっているのは確実のようである。
今日は大寒であるが、寒九の雨以来土の色も下草の色も春めいてきたと感じるこのごろである。

名実

春深し妻は無心に豆を剥き

毎日毎日エンドウが食卓にのぼる。

絹さや、スナップエンドウ、いずれもいまが盛りだが、好みでいうと絹さやの方が好きだ。それもあれこれ手を加えないさっと茹でただけのサラダがいちばんいい。これなら日に三回でてきても飽きることはない。
いまは未熟な豆を莢ごといただいているのであるが、まもなく実豆が食べ頃を迎え主役交代となる。実豆は実豆で豆飯がうまい。明日六日は立夏。名実ともに夏となる。

習慣化

春眠をなでゆく猫の息吹かな

眠い朝が心地いい春である。

その深い眠りをむさぼっているうちに、やがて猫に鼻息をかけられれば終わることになる。
家人にたたき起こされるに比べると憎めないのがいい。うつらうつらしながら猫の喉などをあやしているうち、不思議に目が覚めてしまうのである。
目が覚めたらつぎは朝飯を早くせいとあおられるのであるが、いい意味で一日のリズムをきざむ第一歩となる。あとは自然に体が動いて、猫トイレの交換、同掃除、そしてその間用意してもらっている朝食のテーブルにつく。そのあとは身支度をととのえ、勤行、猫のブラッシング、部屋の掃除、ゴミの日はごみ出し。毎朝この繰り返しである。どれかひとつでも順序が狂ってしまうと、なかなかリズムを取り戻せない。そのくらいルーチン化、習慣化しているわけだ。
これらが全部終わるのが八時半頃。ようやく自分の時間となるのである。