ほろ苦いもの

四百枚書いて卒業許さるる

卒業式のシーズンである。

高校の卒業式は受験やら予備校受験やらで出席はできず、大学もまた不勉強がたたって必須科目一つの単位がとれるかどうか最後になってやっと紙一重の差で許された。ゼミの方はといえば、これまた内容の乏しさをボリュームで補おうと400枚も書いてやっと単位がもらえたのだった。
そんな状況を反映したのかどうか、卒業式が近づいても実家には案内も届かないというので、心配する母親が急遽上京してくるようなこともあった。

このシーズンが近づくと「卒業できないかも」という夢で目を覚ますようなことが幾度かあったが、さすがに最近はもう見ることはない。

季語「卒業」にまつわる思い出、言ってみれば学生時代の思い出はほろ苦いものがほとんどだが、句に詠もうと思えばいくらでも出てくるような気がする。

春を呼ぶ行事

お水取り紙衣は裂けも煤けもし(おみずとりかみこはさけもすすけもし)

東大寺お松明

お水取りというが、実際のお水取りは最終日だけで、それ以外では火を用いることの方が多いらしい。

回廊をお松明をぐるぐる廻しながら堂童子が走る絵が有名だが、実は、大団円を迎える3月12日からの行では達陀の行法(だったんのぎょうほう)という、礼堂の中でお松明を使うもっとも秘儀めいた行が行われる。この行では礼堂の内部で大きなお松明を床に突き刺すような仕草で火の粉が飛び散り、それを堂童子らが箒ようのもので叩きもみ消す動作が繰り返される。よくも火事にならないものだとほとほと感心するほどの火の勢いなのである。
以上は、この期間国立博物館で展示されている東大寺修二会のビデオから得たものであるが、回廊の外でみられるお松明だって、たかだかと軒に揚げてみせる所作の折には延焼するんではないかと十分にハラハラさせられるのである。こんなときお松明が崩れて落ちるなどすれば観客席からどっとどよめきがあがる。

堂の中で行われている行の様子は外からはちっとも分からないのであるが、ときおり聞こえてくる堂の床を打つ音、これは「差懸(さしかけ)」という練行衆独特の下駄の音であり、五体投地の音なのであろうが、想像の域を出ない、一般人にとっては、お松明が回廊を走る光景が春を呼ぶ待ちに待った行事であるというだけで十分意味があるのである。

大峯山塊遠望

遠峰の白き耀ひ冴返る

今日はいつもより近く思った。

吉野の山のさらに向こうに真っ白にかがよう嶺がだ。空気が澄んでいるからだろうが、手前の竜門山系、吉野山とのコントラストも鮮やかに見事な山嶺を見せている。
しばらく見とれていたが、どうしても家人にも見せたくなり呼んでみた。

駐車場

一菜の足しにならざる土筆摘む

今日の奈良は寒かった。

車のコンソールに表示される気温は5度。
郡山あたりにさしかかったら、生駒山の方から烟ってきて雪が飛んでくる。それも激しくだ。

確定申告を提出するためだが、税務署は県庁の裏手で興福寺、東大寺に近いせいか県立駐車場も混んでいる。よく考えたら、今はお水取り真っ盛りで、その用意をして出かけてくればよかったと悔やんだのだった。

七里御浜

囀りや沖の三里の黒き潮

囀りというと熊野の海を思い出す。

木本に始まる七里御浜だが、その北端を海に迫り出すように獅子岩、そして花の窟が突きでている。いずれも大きな一枚岩だが、あたりは海桐(とべら)の木が生い茂っていかにも海岸地方らしい雰囲気を漂わしている。
この海桐などの灌木をつたって鳥たちが降りてきては、春を謳歌する声を聞かせてくれるのだ。

今頃はメジロがいいリズムでさえずっている頃だろう。

賞味期限

草餅の丸めるそばより手が伸びて

いまどき手作りの草餅なんて家でも作らないし、和菓子屋さん以外に滅多にお目にかかれなくなった。

昔はハレの日など、一日がかりでおばあちゃんなどが作ってくれたりしたが、物珍しさもあって丸めたばかりのお餅を狙う目がいくつも光っている。
防腐剤など何も入ってない草餅は、柔らかくて香りも強くて、作ったその日にいただくのが一番の食べ頃である。

見過ごしたもの

腹這へるカメラアングル蕗の薹

梅と椿が咲き誇っている華楽園に入ってすぐ左の足元に、蕗の薹がいくつか顔を出しているのを見つけた。

柵も何もしてなくて、気がつかないでいると踏みつけてしまうような場所だったが、見学客の大半は入って正面の唐風呂やその手前の満開の山茱萸には目が釘つけになるのが幸いしてか、どれもが無事に頭をもたげている。

帰り際、その気づかないでいれば見落としそうな蕗の薹を、腹這いになってカメラに写し取ろうというアマチュアカメラ愛好家がいた。句会では、この蕗の薹のことを話題に持ち出したり詠んだものがいなかったので、ここの蕗の薹に気づいたのはもしかしたら僕だけだったのかもしれない。