また読みたい本

愛読の書を開きをり西行忌

今日27日は旧暦2月16日で西行さんの忌日、月齢はと言うとうまい具合に15.3、いわゆる満月と重なった。

「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」の歌通り、今から813年前にみごと大往生。この朝なんとはなしに白州和子の「西行」を取り出してみた。
この文庫本は、引っ越しにあたってかなりの本を始末してきたのだが、またいつか読みたい一冊として残した数少ないものの一つである。考えてみれば持ってきた本というのは、一時期雑誌編集に関わった際に大きな影響を受けた先生方の著作が大半で、純文学性が高いものが多いのだが、エッセイ、紀行文など文章がすぐれていたり、文体が好きであったりしたものたちもいくつか手許に残った。言ってみれば美しくて、見事な日本語というのが好きなのであり、ましたこの歳にいたって世俗にまみれた言葉を書き連ねた本など読んだとて何の感興も得るものはなく、むしろそんなものを読んでいる暇はないと思うのだ。

自分の気に入ったものやこと、場所へだけ、喰う、見る、読む、行く。なんとぜいたくなことであろうか。

窓からの光景

鵯の逆立ちしたる椿かな

昼食後見るとはなしに庭を眺めていたら、一羽の鵯がフェンスに止まった。

どうやら目当ては鉢植えの椿らしい。来るぞ、来るぞとみていたら果たして一番上の細い枝に止まった。随分長い間蜜を吸ったあと、今度は2番目に移ろうとするのだが、具合のいい足場がなかなか見つからないらしく下から背伸びしたり、首を伸ばししたりしているがどうしても届かない。すると、しばらく木を離れて思案の末、今度は花の上の枝をつかんで逆立ちする以外に方法はないと判断したらしく再挑戦、ようよう蜜にありつけた。

なんともないような光景だが、鳥たちの行動は眺めていても飽きないものがある。その後しばらくして、今度は見慣れないやや小型の番がやってきて庭に降りてはしきりに地面を突っついている。調べてみると羽の模様や嘴の形などから「河原ヒワ」とわかった。これは留鳥なので1年を通して見られるはずなんだけど、実際にこの目で見たのは今日が初めてだ。

ちょっとした時間でこれだけ観察できるくらいだから、気がつかずにいる鳥の世界にはまだまだ興味深い生態があるのかもしれない。

薹がたつ

茎立や安否気になる畑の主

畑で畝の手入れをしていたら、上の段の借り主からご挨拶。

初めてお会いするのも春だからこそ。当地では晩秋に収穫を終えたら冬の間畑に出る人はまずいない。啓蟄も過ぎるとようやく人の姿が農園にも見られるようになる。暖かくなって這い出るのは虫だけではないわけです。
かなりの借り主とはご挨拶がすんだが、お隣さんとはまだお顔を合わせていない。昨秋には既におそらく手が入ってないと思われる畝は一面に雑草が伸び始めているし、わずかに採り残されたキャベツは薹がたって花さえ咲いている。

雀始巣

巣作りは嫁が指揮する燕かな

畑の帰り、1羽の燕が民家の軒に入ったまましばらく出てこないのを目撃した。

近づいてみると、なんとそこにはもう1羽の燕がいて、飛んできたものとは明らかに違う声で鳴いている。やや間を置くようにして鳴くのだが、それはまるで相方に対して指示するような感じに聞こえるのだ。やがてまた相方は飛び出してゆくのだが、残った方は巣の形成に専念するのだろうか飛び立とうとはしない。
行きに通ったときには賑やかな鳴き声を聞いてないのでおそらく巣作りの初日だと思うが、住人は果たして玄関の頭上に作るのを許してくれるのだろうかちょっと気にかかるのであった。

七十二候では3月20〜24日は雀始巣(すずめはじめてすくう)。4月5日~9日が玄鳥至(つばめきたる)に当たるので燕の飛来は平均よりは随分早いようだ。

今日開花

燕の翔ぶや千年二千年

田原本町・唐古・鍵考古学ミュージアム
2千年前の楼閣再現

盆地中央に位置する唐古・鍵遺跡を訪ねた。

2300年〜1900年くらい昔の弥生時代遺跡である。出土品から東は駿河、北は翡翠産地で知られる姫川、西は吉備など広い地域との交流があったことが判明しており、河内潟から東へ最初の陸揚げ地であるここは東西を結ぶ一級の環濠集落であったらしい。
田原本町営の大変立派な「唐古・鍵考古学ミュージアム」でボランティアガイドさんからあらまし解説をうけたあと、絵画土器に描かれた絵を元に復元された高さ12メートルの楼閣に向かった。楼閣は江戸時代に構築された溜池の中に建てられており、池の周囲に植えられた桜は今日開花したばかりという風情である。楼閣を巻くようにして多くの燕が飛んでいる。まさに太古から続く営みである。

月峰山遍照院

五分と咲く花の主の不在かな

家の近くに町の指定文化財となっている桜の木がある。

月峰山遍照院の枝垂れ桜

月峰山遍照院の樹齢250年の立派な枝垂れ桜である。谷戸の斜面にあるので下の方から仰ぎ見るような格好だが五分咲きとはいえなかなか姿がよろしい。
既に先客がいて三脚を据えて撮影に余年がない。聞けば鎌倉から休暇をとって京都・奈良の桜撮影に来られているのだという。ところが折角訪ねてこられたのにお寺の門が閉まっていて、戸惑っておられる。そのうち近所の方が来られて、何かと調べてくれたがやはりどなたも見られず不在と分かったが、花見時の入山料のかわりにお賽銭入れておけばいいんではないかということで失礼ながら裏木戸をくぐらせてもらった。

大伯の見た馬酔木

車窓過ぐ目に捕らへたり花馬酔木

どこだったか、車のハンドルを握っていて赤い花が房のように垂れ下がる馬酔木が見えた。

馬酔木といえば大和に縁の深い植物で、昔から各地で自生しているといわれる。歌、つまり万葉歌にも十首詠まれており、なかでも大伯皇女の「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」は哀切極まりない。
ちなみにその十首のうち馬酔木の花を歌わなかったのはこの大伯の歌だけらしく、昔から馬酔木とその花は切り離せない関係であるようだ。大津が処刑されたのは秋10月で、その直後に大伯が都に戻っているので、「咲く」ではなく「生ふる」とは秋に花芽を付ける馬酔木をその道中で見て詠んだものかもしれない。