赤い根

菠薐草土に食ひ込む伐鋏

冬だとばかり思っていたら春の季語だった。

春菊も同じく春。
なるほど春菊は名前からみても春だというのだろうが、実際には鍋ものには欠かせないものなので旬はやはり冬ではないだろうか。作付けも九月ごろ種を蒔けば今ごろから収穫が始まる。
今日は間引きをかねて菠薐草と春菊を摘んできた。さっそくちゃんちゃん焼きとなって春菊を使ったら、鮭の生臭さが消えて実に香り高いうまいものに変身した。市販のものよりも春菊独特の香りが強いように思える。肥料を施さず草の力、微生物の力で育てるので、生育はゆっくりだが味が濃い。
今年の菠薐草は硬い土に太い根を潜らせて出来もまずまずのようである。昨年は小さいままで成長がストップしてしまったので、土の力がいくぶん改善の方向へ向かっているということだろうか。菠薐草は根が命なので、その命をいただくべく鋏を土深く差し入れて収穫した。寒さがまだ本格化してないので甘さがのってないかもしれないが、さてどうだろうか。

再開

遠足子迎ふる母の立ち話

学年別のバスがつぎつぎ停まる。

停まっては1丁目、2丁目の子をおろしてゆく。
一年生は信貴山の遠足。二年生、三年生も同じくバス遠足らしく奈良交通の貸し切りバスが児童をおろしてゆく。停車位置はあらかじめ決められていたのであろう。父兄がつぎつぎに迎えに出てくる。
コロナ禍以来中止となっていた修学旅行もそうだが、バス遠足も再開したようである。
子供たちにとっては待ちに待った日にちがいない。
父兄もまた久しぶりに顔を合わせた人たちもいるのであろう。会釈に終わらず親しげに話し込む場面もあった。

観光シーズン

学らんにあふるる古刹葱坊主

ずんぐりとした葱坊主が花を咲かせている。

そんな季節だ。葱坊主は若い頃なら天麩羅にしてうまいが、花が開いては葉身も固くなってうまくなくなる。
九条ネギなどは株分けして植え替えれば再生して繰り返して使えるので重宝する。余ったものなどは野菜のコンパニオンプランツとして使えるので無駄にするところもない。一度種まきしたら永久に使い回しできる便利な野菜である。
観光シーズンとなって、県は観光客を呼び込むのに一所懸命税金を使っている。とくに修学旅行生の多い当地では修学旅行生にも一人2,000円の補助金を出すという大盤振る舞い。学ラン諸君が古刹を行儀よく巡る様子などはさながら葱坊主の列を思い起こさせる。

第二弾

警報鳴つて八十八夜の雨の夜

今日は八十八夜。

八十八夜の別れ霜というくらいだからこれを境に霜が降りなくなるという。
ところが、予報では明日の朝霜注意報が出ているようだ。この先一週間ほどを見ても朝の気温はなかなか上がらない見込み。ここ数年ゴールデンウィークともなると真夏日がつづいたので、またまた予想が裏切られているようだ。
茄子科野菜はトマトをのぞき寒さに弱い。茄子などは葉色が紫というよりは黒に近いものとなって、あきらかに低温障害の症状をみせている。こういうこともあろうかと第二弾の苗を用意しているので、その成長を待つことにした。今月下旬くらいに植えられればいいだろう。

野性化

茗荷竹一日おきに雨がきて

草の間に隠れるように角を出したのがあっという間に膝の高さまで伸びた。

陰湿な場所を好むという仲間には生姜があるが、植物学的には同じショウガ科である。道理で。
で、これだけ雨が多いと茗荷の伸びることおびただし。
庭におろしたのがいよいよ野性味を発揮しだして、今年はすこぶる獰猛に育っている。これ以上株が増えないよう対策をせねばならない。
それにしても今日の雨は寒い。五月の雨とは思えない冷たさは、今月の波瀾を予感させるものでなければいいが。

会話を楽しむ

げんげ野の見向きもされぬ下校道

田一枚見事な紫雲英である。

菜園への行き帰りに目を楽しませてくれる懐かしい風景だが、子供たちは立ち止まって見る風でもなく、今ではかれらの遊び友だちではないようである。引率付きの集団下校ということもあり分刻みで動くのに馴れたか、寄り道というものを知らないで育つと身近な生きものへの感心も失せてしまうにちがいない。
こちとらは、雨の間を縫って菜園の仕事に余念がないが、畑に置いたコンテナにいつもいる雨蛙君と会話を楽しんでいる。

ぽっくり往生

逝く春や馬券買うたも忘れたと

悲しいかな何割かの確率で人は認知症を患う。

友人の訃報につづいて同期では最も若い(早生まれの)友人の消息が流れてきた。ここ一二年そんな話は風の噂に聞いていたが、重ねて聞くと遠い人になってしまうのかと気が重くなる。
直接死因となる病でもない認知症だが、死因のうち最も高い割合とされる癌同様できれば避けたいと思ってしまう。
隣の斑鳩町にはぽっくり往生の寺と知られる吉田寺きちでんじがある。
開祖恵心僧都が母に魔除けの祈願をした衣を着せたところ、なんの苦しみもなく往生したというところから、高齢者のお参りがたえないという。