夜目遠目

たそ雑踏に花衣待たするは

町内会の総会終わって反省会という名の懇親会。

一年間の役員を終えた面々の晴れ晴れした表情が印象的である。
ときに本当の反省もあって、延々つづくこと6時間。
帰路についたときはもう夕闇が迫ろうとしていた。
そのとき、角を曲がってくる麗人がいる。これが夜目にも美しく、まるでパーティから帰ってきたような明るい色調の衣装をまとっている。近づいてよく見れば、花見から戻ったばかりという同班の某ご婦人である。実年齢よりは10歳以上も若く見えようか、その場にいた面々もみな感嘆符!
そう言えば、今年の花見も今日が最後。大勢の人が名所へ押しかけたことだろう。

本意

町広報戸ごとに配る朧かな
薄雲の行灯めける朧月

今宵の月こそ典型的な春の月だ。

薄絹をまとうような、薄雲の行灯明かりが夜空をひろくおぼろに照らしている。
秋の澄明とも、冬の玲瓏とも全く違う夜空で、それが下界を統べるがごとく頭上に広がっている。
まことに春の月とは、月単独ではもの足りず、水蒸気を帯びた空気、そして薄絹のような雲とあいまって朦朧の世界を生み出すのだ。考えてみると、これはまさしく季題の本意であり、いくら夜空をながめてもこの本意と響き合うような着想が浮かんでこないのは悲しい。

そんなことを考えながら、本年度班長として最後の広報を配って歩くのだった。

道行き

春泥の人にさしのぶ腕かな

何もかも舗装されてしまった。

都会ではまず春泥というものは見つからない。
それでも、ちょっと田園地帯に入ればたしかに泥道というのは残っているものだ。
そんなところを二人連れで歩くということも滅多にないはずで、ほとんどが独り。いや、子供たちならばちょっと冒険にやってくることもあるだろうか。
掲句は、どこかで経験したか、見たか、あるいは春泥ではないただの道悪の状況だったか、いずれにしても残像としての映像である。

泥だらけで帰ってきて、ズックの靴がひどいことになっていたりもした。その場で洗えばいいのだが、ほおっておくと、一晩で靴の裾が固まってしまって、始末が悪かったものだ。
今も、吟行などで靴を汚して帰ることもある。車の中も汚れる。昔ほど気にはしなくなったが。

重症

没日して大和に霞む二上山
なかんづく吉野を抱ける遠霞

周囲のすべての山が霞んでいる。

この霞の成分として、吉野の美林から飛んでくる檜花粉がたっぷり含まれているんだろうなあ。
これほど水洟がでるのは初めての経験だ。今日一日でティッシュペーパー一箱分使ったと思えるくらい、何度も何度も鼻をかんでいる。
杉花粉の頃はこれほどひどくはなかったので油断していたのでなんの防護柵も講じてこなかったが、夕方から空気清浄機を引っ張り出してみた、手遅れの気がしないでもないが。
ただ、一時間ばかりたったが、何となくおだやかになってきたような感じなんだが。

ちりぬるを

警備士の独り占めなる桜かな

春休みの学校に桜が満開だ。

児童も誰もいなくて、桜もちょっと淋しいのではないか。
この週末が過ぎるともう散り始めて、入学式までもちそうもない。
逆に、今年の卒業式は桜にお祝いされるという珍しい年ともなった。

家のなかに居ても目がしょぼつくが、これほどまでにひどい年もなかったので、外出は控えざるをえないのが心残りである。

貫く

転向の悪びれもせで卒業す
カルチャーの古典講座を卒業す

かつてのヘルメット組でいまだに行方知らずの猛者がいる。

学園闘争喧しい時代に、同じクラスや部活のなかまで何人も運動に身を投じていたが、たいていは就職活動を機に髪を短く切ってさっさと転向したのがほとんどだったのにである。
行方知らずの奴こそ真面目で、純真だったが、みずからの信念を曲げることもまたできなかったのであろうか。

いまどき、運動などに四年間を賭けるような学生はいるのかどうかしれないが、貫くのもまたひとつの生き方だろう。

日課

掃除機のポットに透ける春埃

サイクロン式だとかいってやたら吸引力が強い。

猛烈な勢いで回転する様子が、透き通ったケースからよく見える。
たまった埃の暈も目で確かめられるが、毎日掃除機をかけていてもどんどん溜まるようである。
前にも詠んだように、猫たちの毛がからんで団子のようになっている。

最近、その掃除機が床をスムーズに滑らなくなったので、メーカーに交換してもらった。毎日使っているとは言え、一年そこそこでソールのローラーがすり減ってしまうのは、いくら有名メーカーでもどうかと思う。