幸せの色

生垣を借りて宿借る初時雨

目の前に翡翠ブルーが走った。

久しぶりに見る。
翡翠というのは、それこそいつものように、突然に現れて気がついたときにはもう視界のかなたに消えてしまうものである。後を追って川沿いを探ってみたが、案の定二度と見つかることはなかった。
この時期は親を離れた今年の雛が安住の地を求めて放浪する季節。餌場が確保できなければこの冬が越せるかどうかの瀬戸際である。
覗いたところ魚影も見られない小さい川ゆえ、こういう時期しか遡ってこないので、遭遇する機会があると言えばあるのだが。
時雨が小止みになって再び歩き出したところでの遭遇で、雨に濡れていることもすっかり忘れるほどの至福の時間である。翡翠ブルーというのはなぜか人の心をときめかせる幸せな色である。
急に冷えて、すでに晩秋あるいは初冬の趣。今年の初時雨となった。

世代をこえて

なやらひの的に当屋の気合かな

今日は節分。

近くの八幡さんには伝統的な行事がある。
鬼打ち式である。
氏子の代表となる当屋衆が手製の弓を手に集まる。神事のハイライトは四方に一本ずつ矢をはなって鎮めた後、わずか二間先ほどの的に書かれた鬼という文字をめがけて、最長老が矢を打ち込むのである。
玩具のような弓矢で、しかも間近の的を射るにもエイとばかり真剣な気合いをかけるのが微笑ましい。
本殿は小さいながら古くからある社で、こうしたささやかな神事が世代を超えて受け継がれているのである。

屈託ない

鍵つ児はかぎつこどうし日脚伸ぶ

このあたりの下校時間は4時半らしい。

ついこの前まではもうたっぷり暮れてしまう時間帯だから鍵っ子同士遊ぶこともなかったが、今では五時を過ぎても十分に明るく子供たちの元気な声が聞こえてきたりする。
春分も過ぎて四月ともなれば、下校後親のいない子同士近くの公園で親が帰ってくるまで遊ぶことも多い。
その時間帯は外へ出たときなどそれとなく注意しているのだが、いまのところ何のトラブルもなく屈託ない顔で挨拶してくれるのが嬉しい。

ドーナッツ

四温とて雨降らぬことなかりけり

ようやく暖かい日になったかと思ったが雨に変わった。

午後からの予定もキャンセルとなって、たちまちやることもない退屈な日となる。
鳥も来ない窓の外は味気もなし。
昼にドーナツを二つも食ったら腹も空かなくなった。
どうしようもない2月の始まりとなった。

昼の月

柏木の古葉さやさやと寒木立

久しぶりに飛鳥へ足を延ばした。

橿原に用件があるついでに回り道しただけだが、それでも久の飛鳥の冬は身がきりりと締まるような寒さだった。
冬木立はいよいよ春に備へて冬芽もしかと確かめられたし、古木の凜とした佇まいには多武峰にのぼった真っ青な昼空の下弦の月が冴え冴えとして趣を添えていた。

老梅はあまねき光まとひゐて

飛鳥に寄った目的は梅の探索であったが、意外に梅は少なかった。かぎられた時間のせいもあるが万葉文化館ならまずあるに違いないとふんでようやく二、三本見つけることができた。
プロの養生もあってなかなかの枝振りである。どの枝にもうまく光が行き渡るように手入れされている。

恐竜の末裔

寒禽の小舎脱け出して雪せせる

鶏というのは残酷な生きものである。

群で飼うと必ずいじめに遭う奴がいる。いじめというのは集団リンチみたいなもので、誰彼となく嘴でつついて羽根を傷つける。最悪はその毛をむしり取るので、季節外れの羽抜け鳥となることもある。
そんないじめられっ子が鶏舎から出て徘徊したりするが、それでも遠くに行くようなことはない。しばらくしたらまた小屋に戻るのである。
いじめが、ひどいときには死に至らしめることもあり、つくづくとくしがたい生きものである。そう言えば目にズームアップすれば、恐竜のそれと同じでじつに冷たいものを見るのである。

自然のもの

寒卵小ぶりと言へど殻固し

鶏舎を抜け出して近くを徘徊しているのもいる。

ゆったりとした鶏舎でゆとりの飼育をしているようで、卵はやや小ぶりながら殻もしっかりしている。丼のご飯に落としても黄味がぷっくらとしていて簡単には崩れない。
いかにも滋養ありそうな寒卵である。
ぐるぐると箸でかきまぜて一気にいただく。有機無農薬野菜の漬け物だけがおかずでこれがまたうまい。
こういうものばかりいただいていると体に何か力がわいてくるような気がする。
人工的なものばかりに囲まれていると、こうした自然に近いものにふれる機会が少ない。自ら求めて探し回らなければならい時代である。