寝正月

着ぶくれて腹たらふくに居眠りす

外は気温が上がらず、出渋っている。

昼の後、落花生を食べ出したらこれが止まらず腹にこたえるほど食べてしまった。
腹がふくれれば眠くなるのが相場だが、太陽も厚い雲のかげで部屋の温度も上がらず炬燵に足を突っ込んでいても一向に足が温まらない。
とうとう暖房まで入れて寒さをしのぐことになったが、さすがにビデオの途中で眠りに落ちたようで今日締めきりの稿の推敲もせずに終わってしまった。
正月も六日となると緊張感も薄れるのかもしれない。

死神の灯

燭台に蝋固まりて寒に入る

蝋溜まりの蝋を掃除した。

何ヶ月かに一回の作業だが、これがなかなかきれいに取れないものである。今日調べて見たのだが60度以上のお湯で温めればきれいさっぱり取れると知った。分かってみれば眼から鱗である。
一日わずか五分程度灯すだけの燈明だから毎回というわけではないのだが、いよいよ蝋燭の最後となってきれいに燃えてくれれば蝋が溜まることはなく、そのためには燃え尽きるまでそばに付いていなければならない。
落語『死神』の落ちの部分では、蝋燭の炎が尽きるときが命の尽きるときというシーンがあるが、蝋燭が最後に燃え尽きるまでの時間というのは待てば意外に長いのである。へたすると勤行よりも長く時間がかかるので、とても付き合ってられないということがある。
かくしてじょじょに蝋が溜まり、そうなるとやはり見苦しい。
本来なら年末にさっぱり掃除するのがいいのだろうが、あいにく燭はまだ使える状態であったので正月早々の掃除となった次第である。
今日は小寒。これから一ヶ月あまりが寒中。春はもう近い。

神よ仏よ

初詣うとし信心うすければ

ジンクスというものがある。

というのは、まれにしか行かない初詣の年にかぎって何か災難がおきるのだ。
伊勢神宮に参った年、近所の神社に参った年。それらの一年は少しもいい年ではなかった。
その最たるものが母親が亡くなった11年前である。したがってその後は新年の吟行で神社仏閣を訪れても初詣と思わぬよう、意識して淡々と歩くのみである。
神仏に見放されてもそれなりに静かな暮らしができている。怖れることはない。

金帰日来

四日はや単身赴任留守家族

今日から初仕事のところもあるだろう。

まだ松の内だというのに早くもひっそりとしているお宅がある。
明日からの仕事始めに合わせ、今日早くから単身赴任先へ向かわれた留守家族も子供たちのはしゃぐ声が聞こえてこない。
また一年金帰日来の日々が始まるのであるが、当の本人はじめまだ小さなお子たちのご家族の寂しさは察してあまりある。
私も転勤は何回か経験しているが、さいわいにしてみな自宅から通えるところばっかりだったのでその悲哀は味わったことはない。
休みには家族サービスに徹し、仕事の密度も我らの頃に比べれば比較にならないくらい厳しいだろうに、現代のサラリーマン諸氏はほんとうにご苦労なことである。
頑張っているお父さんに、留守を守っている家族に、希望の年であるように願わずにはいられない。

カロリー

餅入りの茶粥吹いたる三日かな

さすがに体が重くなったように感じる。

動かないうえに飽食。そりゃあ太るわ。
というわけで父祖伝来の茶粥とあいなる。正月だからというわけではないが、我が家ではこれに餅を放り込むのが慣わしとなっている。おかずはお節の残りもので十分である。
黒豆、里芋もたっぷり食したから総カロリーでは相応のものになるので決して軽いものではないが、何となく罪の意識のようなものから解放されたのは確かである。

Uターン

食積のごまめにきしむ奥歯かな

おせち料理のなかで一番最初に箸がのびるのがごまめ。

ただ、かつては自慢の歯が最近弱って、骨ごといただくごまめに思い切って噛むのをためらうようになった。とはいえ、やはり好きなだけあって量が減ることはない。
次に好きなのは黒豆で、こちらはまだちゃんと箸でつまめるので脳はまだ大丈夫だと思う。
年末から肉だの魚だのうまいものばかり食っているし、子に合わせて塩分もいつもより濃いめなので、明日からはまたいつものエコな食い物にもどって体調をととのえる必要もあろう。
いまのところコロナも持ち帰らなかったようだし、喉も大丈夫。
明日早くのUターンの無事を祈るのみである。

新戦前

初刷の紙面に慶事なかりけり

今年の元日の紙面はさえない。

この一年、あるいは近未来を切り開いていこうという意欲すらも感じられない平板な記事の羅列になっている。
まさに戦前を思わせる世相を反映していると言っていいが、別の観点すれば新聞の身から出た錆びでもあるまいか。批判を忘れたマスコミ、なかんずく大新聞の政権寄りの姿勢は読者の新聞離れを加速させているように思えてならない。
ちょうど地上波テレビが大手広告代理店、大手プロダクションに編成権すら明け渡し、しかも内容も出演者もマンネリ化してNetflixなど新興勢力のコンテンツに駆逐されようとなっている状況と符合するようである。
テレビも全国紙も新しい機能を生むではなく、古い視聴者や読者相手にマンネリに陥っている、いわゆる「オワコン」なのである。
NHKもさすが潤沢な資金があるのでドキュメント番組には見るべきものはあるが、それ以外の報道系は政権の広告塔と化し、娯楽系の民放に合わせるような低俗化は目も当てられないさまである。
新年早々から暗い話で恐縮だが、「新戦前」にはしてはならない年である。
*新戦前 徹子の部屋で来年はどんな年になるかと問われてタモリが言い当てた新語である。