不揃ひは漬けると婆の冬菜畑
冷え込んできて冬菜の収穫時期となった。
めいめいの畑で春菊、大根、小蕪、小松菜などとりどりの冬菜がいちだんと甘くなる季節。
夕方に来ては幾ばくかの菜を摘んで帰るひとが多く、スーパーなどのポリ袋からあふれんばかり。一目で今日は鍋と知れる品目がのぞいたりして、それぞれ味自慢。
夏野菜とちがってそめいめいの冬菜がそれぞれ違っていてそれもまたいい。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
不揃ひは漬けると婆の冬菜畑
冷え込んできて冬菜の収穫時期となった。
めいめいの畑で春菊、大根、小蕪、小松菜などとりどりの冬菜がいちだんと甘くなる季節。
夕方に来ては幾ばくかの菜を摘んで帰るひとが多く、スーパーなどのポリ袋からあふれんばかり。一目で今日は鍋と知れる品目がのぞいたりして、それぞれ味自慢。
夏野菜とちがってそめいめいの冬菜がそれぞれ違っていてそれもまたいい。
動かすなそこは蛙の冬眠中
うかつにも起こしてしまった。
冬眠ちゅうの蛙をだ。意外にもプラパレットの下に眠っていた。土の中でなくともそこが安全安心ならいいらしい。
蛙にすればいきなり布団を捲られてすぐには事態が飲み込めない様子。いやいやすまんことをしたとすぐに元に戻したのだが、あれからどうしただろうか。
夏の間あれだけたくさんの蛙がいたのだから、どこに潜んでいたとしても不思議ではなくむしろどこにでもいると思わねばなるまい。
いつも庭に顔を出すあいつも身近なところで冬眠中にちがいない。
手帳買ふ妻の師走のきたりけり
日記はおろか手帳さえ買わなくなって久しい。
手帳を買ったところで持ち歩くわけでもないし、すると予定を書き込んでも開くこともないので見落とすばかりである。むしろ今ではほとんどマスの大きなカレンダーに書いてたほうが見落とすことも少ない。
一番大きな効用はそこへ書いておくことで家人がチェックしてくれることである。「今日は何時からどこどこクリニックだよ」とか。いちいち覚えていなくてもリマインダー役を家人が果たしてくれるのである。
つい先日、脳のスキャン検査をしてもらった家人が空洞もなく年齢よりずっと綺麗な状態であると言われて上機嫌で帰ってきたが、それでも手帳はいまだに手放せないようである。
記憶を他人に頼っているといよいよ先におかしくなりそうである。
牡蠣吸ふて育ちし海を推りけり
齢とともに牡蠣がうまくてならぬようになった。
さいわいにもアレルギーもなく、どんな料理でもいただける。
好きなのは生牡蠣だが、近くの店ではめったに手に入らないのが残念である。
達人によると舌でおおざっぱな産地を当てるそうだが、近年は三陸、広島以外でも頑張っているようで素人には大きさだけでははかれなくなったと言える。
食いしん坊にはうまければどこの産地であろうといいのであるが、産地をイメージして食すると旅の印象も加わって悪くはない。
翌る日は麺のおつゆのおでんかな
昨日の夕食はおでんだった、
そうなると決まって今日の昼飯はうどんまたは蕎麦になる。
おでんの出汁のほかに、練り物、野菜、昆布など様々なうまみが溶けこんだおつゆが最高なのである。
而して、きょうはいただいた蕎麦である。
今日のように一日曇りがちで、家にいても寒い日はあったかいものにかぎる。
初霜に後れとつたる庭のもの
油断していた。
暖かい日が続くものだから気のゆるみがあったか。
霜対策もせずにいた鉢物がげんなりしている。
なかには寒さに弱く部屋に取り込まなくてはならないものもあって、気の毒をした。
畑のジャガイモの葉も、みごとに黒く萎びてしまってはもう大きくは育つまい。試しに掘ってみると案の定小さい玉がほとんどで大きな玉は数少ない。
自然を相手にするには最新の注意が必要であることをあらためて勉強することとなった。
歳暮ともつかず手打の蕎麦贈る
習い始めたという蕎麦が届いた。
テレビなどで素人が挑戦する場面を見ると、最後の刻む段になってたいがいが太さもまちまちの、見た目からしてうまそうには見えないことが多いが、たまにコメントをくれるH君の場合はちがった。
これは性格がなせる技かもしれないが、まるで器械ででも刻んだように細く曲がりのない見事なできなのである。
学生時代以来の友人だが、そんな細かなことが得意とは意外で、話を更に聞くと公民館の料理教室に通っていて今は蕎麦打ちコースに挑戦中なのである。
結婚式に招かれたときも、いつの間に洗礼を受けたのか、聖徒として教会で神妙な顔つきで誓いの言葉を述べていたのにも驚かされたが、彼にはこうしてときどき驚かされることがある。
学生時代、ポン友であったり、一緒に悪行の数々をなしてきた同期から見てもそれはそれは意外な変貌に映るのである。
お孫さんの誕生でご夫人が長い間留守をしていても、自分の飯くらいちゃんと作れるというのだから、かつての悪友からすれば到底及ばぬ高みに到達したと感服するしかないのである。