悪くない

逆光に金波さわさわ枯芒

今の時期の芒は逆光にかぎる。

穂先が金色に輝いて見えるのは、狐などの動物の和毛が微細なものまでくっきりと浮かんで生き生きと見えるのに似ている。
今日はバイクで走っていて、逆光の芒が目に飛び込んでくる一瞬の眩しい光景に出会うことができ、それは本当に美しいものだった。
何でもない光景だが、束の間のアートと言っていいようなシーンに心奪われ、こうして今でも記憶に残されているのも悪くないなと思うのである。

ライブ中継

初冬のおどろおどろに月の蝕

442年ぶりだと言う。

皆既月食に加えて月に天王星が隠れる天王星食が同時に起きるのは、1580年以来ということになるが当時はまさに戦国の極みにあったときで、当時の人はどういう反応をしたのだろうか。
現代はyoutubeで各地を結ぶライブ中継もあって、各天文台の望遠鏡を通しての画面もあり、いろいろ楽しめる時代となった。また、その画面を流れ星が横切ったりして生中継ならではのハプニングも愉しい。
それにしてもこの月の赤らみはどうだ。ふだんの姿からは思いもよらない凄味である。

補:正確には皆既月食+惑星食で、今回は天王星、400年前と300年先は土星だそうです。

添う

地平なき峡に冬立つ朝日かな

奈良の最低気温が六度だったとか。

当地もいつもより一枚多くはおる朝となった。明日の朝も十度を下るとか。
昼間はそうではないのだが、朝はもう冬と言っていい、秋と冬との端境にある期間かも知れない。夏の季語に「夜の秋」があって夏だが夜などは秋の兆しを感じることを言うが、今日などはさしずめ「朝の冬」というところだろうか。もっとも、「立冬」の日の朝を「今朝の冬」と言うのでそのような意味で用いられることはないが。
日中は気温があがるので朝に重ね着した一枚を脱いでもいいようなものだが、いったん羽織ってみたものはよほどのないかぎり脱ごうとは思わない。こうして、いったん厚着を覚えたら少々気温が上がろうがそのまま体が馴染んでいくのである。
自然とは喧嘩せず、自然に添いながら日を送る平穏が何よりである。

飢餓世代

昭和期の団地の庭の蜜柑の木

高齢者が中心の団地には、決まって柿や蜜柑などの柑橘類など果樹がシンボルツリーという家が多い。

かつてバブル期前後には各地でおおいに宅地造成が行われ、新築、建て売りの家が考どんどん広がっていた。オーナーの年代と言えば戦中派、あるいは戦後の団塊世代などがその中核である。
考えるにそういう年代層の幼少期というのは、食糧事情も貧弱で果物というのはまことに貴重なものであった。自分の家をようやく持てて、狭くて猫の額と言われるようとも飢餓の記憶が庭の樹木として果物を選んだとしても不思議ではない。
かくいう私も、幼少期もらってきたのか買ったのか定かではないが、父が葡萄の苗木を家の前に植えたのを今でも鮮明に覚えている。ところが、その葡萄の木が実を生らせるのを見ることなく引っ越さなくてはならないようになった。
三十代も半ばになってようやくマイホームを手に入れたとき、心の底に沈殿していた葡萄の木への執着の念がわいてきたのも自然なことであった。
ただ何年かしてその葡萄の棚がシロアリにやられて以来、うまく実がならなくなった。
当地に越してきても、葡萄は植えたし、柿の木も植えた。
花より団子。飢餓世代は果樹から離れられないのである。
ところが、東側、西側の古い団地に囲まれた当団地は比較的新しく、三十代、四十代が中心でまず果樹は見当たらない。それどころか庭の木さえほんとうに少ない。共稼ぎ世帯も多く、庭の手入れが敬遠されたのだろうか。

紅葉情報

身の震ふ雨に始まる十一月

冬が駆け足でやって来る。

週の前半は高めだが、週末には五度に冷え込む予報も出て、紅葉情報もスタートした。
例年そうだが、どうも冬のはじめは思い切り寒くて、年があらたまれば緩ぶというような傾向がある。
今年も年末寒波、師走寒波に注意した方がよさそうである。

賞味期限

湯豆腐や夫婦一丁食ひかぬる

早くも湯豆腐が食卓にのぼった。

今日はきのうに比べて寒くもなくむしろ暖かくさえ感じるのだが、メニューの思案のすえ賞味期限がせまる豆腐の処理となったようである。
ともあれパックに入った豆腐一丁、食いかねるほど老いを感じる夜であった。

長くて短い

笹子来て終の栖のらしくなり

第一声を聞いた。

しかも庭でである。
メジロ、ジョウビタキというのはよく来るのだが、鶯が来たのをこの目で見、耳で聞いたのは初めてである。
庭では折しもみぃーちゃんが昼寝をしていたので、もっと見ていたいという思いと早く逃げろという気持ちが交差してハラハラドキドキのしどおしである。
メジロなどは木の枝に止まって地上には滅多に降りてこないので安心して見ていられるが、鶯は地上低くを移動するのが常などでとくに心配となる。
しばらく笹鳴きをしていたが、こちらの気配を察したか、やがて声が聞かれなくなった。おそらく1分以内のごく短い時間だったろうが、それはかなり長く感じられる時間であった。
ちなみに笹鳴、笹子は冬の季語。今年の冬は早いかもしれない。