睨まれる

出囃子や師匠いつもの咳ひとつ
かりんとう飴含みしままに咳きにせく
咳きにせく花梨の飴をしゃぶりつつ
指揮台に向きを直して咳払

昨日は「嚔」だったので、今日は「咳」で。

昨今は、何とか菌とかウィルスとか、アレルギー源とか、とかく気にしなければならない類いがはびこっているようで、風邪も引いてないのにマスクをする人が増えているらしい。街を観察していると、いかにマスクの人が多いかあらためて驚かされる。
潔癖症の人にとっては、人の触った手すり、吊革はおろか、空気さえ共有したくないらしい。そんな人のそばでくしゃみやせきをしようものなら、露骨に嫌な顔をされるんだろうなあ。
顔の大半はマスクに隠れているから、表情は読み取れないだろうが、きっと不快に思っているに違いない。「寛容と忍耐」がもはや美徳でもなんでもなくなって、「キレル」「ムカツク」が市民權を得る時代のようだし。

掲句に戻って。ホールでのクラシック演奏ともなると、指揮者がタクトを振り上げた瞬間咳やくしゃみは怺えるものと相場は決まっているが、その緊張感から解かれるせいか、楽章の合間となると会場のかしこから咳払いがわき上がるというのも定番の光景。
たとえ咳や嚔が止めようがなくても最低限に抑えることは可能だが、最悪なのが携帯電話の電源切り忘れだ。コンサートに限らず、人のことは言えない面があり心したいと思う。

猫の苦手なもの

断りて天下晴れての嚔かな
すれ違ひざまの嚔の漢かな
くしゃみして猫の不興を買ひにけり

くしゃみを怺えるのは難しい。

たまに、出そうでいて不発におわると周りのほっとした瞬間を感じるときもあれば、いきなり大きなくしゃみをして周りの顰蹙、不興を買うときもある。そういう場合はハンカチで抑えるとか、手で覆うというようないとまはまずなく、満員電車とか、喫茶店とか、閉所に人が詰まっているような場所なら間違いなく冷たい視線にさらされるし。
たしかに、逆の立場となってみれば、マスクくらいしてろよとか言いたくなるもの。
せめて、間が取れて周りに断ってからのくしゃみなら、後ろめたさも幾分はれて心置きなくぶっぱなすことができそうだ。
ただ、他人に向かっては間違ってもしてはいけないのは無論である。

先々代の猫は、家人の周波数の高そうなくしゃみが苦手で、必ず声をあげて抗議していたものだ。猫だって、耳障りになるようなくしゃみは苦手なのだ。

類句大量生産

出稼ぎの夫に代わりて冬田打つ
出稼ぎの列車貫き大冬田
出稼ぎの駅へ途中の冬田かな
整然と電柱影引き大冬田
石積の崩れてありぬ冬棚田
冬棚田巻いて葛城古道かな
杭跡の湿り残れる冬田かな

兼題句である。

米どころの田、兼業農家の田、三ちゃん農家の田、峡の田、それぞれ場面は考えられる。
大きく詠んだり、微細な点を詠んだり、見慣れた景色だからいろいろな句が生まれておかしくはないだろう。
ところが、いざやってみるとなかなか難しい。
締め切りまで数日あるから、もっと数詠まなくちゃ。

どこに「金」がある

近火とてバケツ手にしてみたものの

大火があった。

悪条件が重なってこのような火事は20年ぶりだという。
百軒以上が全焼となって、類焼となった被災者は年末を控えてまことにお気の毒というほかない。
今回は風下となった海がもっと遠ければ、被害はもっと広範囲に広がっていたに違いないと思うとぞっとしてくる。

熊本の地震といい、このような大火といい、終わってみれば今年は災害の年として記憶に残ることは間違いない。
今年の漢字が、過去何回か採用された「金」だとは、どう考えても感覚的に受け付けなかったが、この大火によってますますその坊主のノー天気ぶりが嗤われることになろう。

共助で

定年となりて煤逃封印す

定年ともなると、煤逃げの口実が見つからない。

それに、自分も歳をとったが連れ合いも色々ガタがきてもおかしくない。
腰をさすりながら掃除しているのを、知らぬ顔決めるわけにはいかないし、ふだんから掃除機などはなるべく分担するようになっている。足腰が立たなくなって「煤籠」せざるを得なくなるまでは、家事を分担しながら、共助の精神でいくのがいいというものだろう。

今日は、納句座。納会もあるので予約投稿である。

我家の事始め

煤掃やかくも埃のなかに棲み
煤掃やかくも芥に身を埋み

年末だからと言うわけではないが、たまに気が向いたりして念入りに部屋をあらためる。

出るわ、出るわ、この埃。
ふだん気にも留めずにいるが、こんな埃っぽいところにいたんだと思うと慄然とする。
最初は軽く始めたつもりの片付けが、結局はえらい大事の大掃除となる。

今日は台所の換気扇が高いところにあって大変だというので駆り出された。
これもファンなど洗い始めると、なかなか油汚れがとれなくて、そのうち手袋をするわ、湯を出すわ。洗剤の湯でもなかなか取れないとなると束子を出せだの、細かいところは歯ブラシだとか注文が多くなる。
結局台所全体を汚しまくったあげく、掃除するのはファンだけでは済まなくなった。文字通り台所の大掃除である。

ところで、「大掃除」は春の季語。どうやらお役所の期末恒例行事の名残らしい。今は大掃除と言えば年末が相場で、どこの家も大なり小なり一年の汚れ落としを行う。その年末には「煤払」「煤掃」という季語があり、寺のお堂や仏様などの煤払いのニュアンスがあるが、各家庭で行う大掃除も「煤払」として詠んでも問題はない。
ちなみに、東大寺の大仏さまのお身拭いは夏であるが、薬師寺、唐招提寺はじめ多くの寺では年末に行われる。
一般にこのような年迎えの準備を始めるのを「事始め」と言って、12月13日とされる。大神神社が大門松を立てたり、京都祇園で芸舞妓が京舞の師匠に挨拶に行くのもこの日である。

一陽来復

もうもうと五体薫きしむ柚子湯かな

香りだった湯気に全身が柚子の香りに薫きしめられるようだ。

今日は冬至。陰の極みに柚子風呂に入ったり南瓜を食べたりして邪悪を払う。
温められた柚子からはいっそう香りがたって、浴室はさながらアロマセラピーの施術を受けているようである。
今年もあとわずか。湯気に包まれて今年のあれこれをゆっくり味わうのもいいのではないか。

今朝は珍しく霧が濃い。起床してからさらに深くなったようだ。視程100メートル以下。10時になってもまだ霽れない。
気温が上がるという予報だが、お日様が顔を出してくれての話だ。
ドアを開けたら、玄関脇の南天にヒヨドリ君がいたとみえて驚かせてしまった。
風もまったくなく、あとは「一陽来復」を願うばかり。