爽やかな菊のお家の慶事かな
いろいろあったが、ともかく初心を貫いたことを喜びたい。
NYでの暮らしがお二人の心の安寧につながるように祈りたい。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
爽やかな菊のお家の慶事かな
いろいろあったが、ともかく初心を貫いたことを喜びたい。
NYでの暮らしがお二人の心の安寧につながるように祈りたい。
自然保護言ひしが畑の菜虫とる
アブラナ系の苗が息も絶え絶えである
大根、小松菜、芥子菜、チンゲンサイ、白菜等々植えたり蒔いたり。芽が出たものは芽を、植えたものの葉を、得体の知れない小さくて黒い虫が食い荒らしているのである。調べると大根サルハ虫というやつだそうだが、こいつはふだん地中深くにいるが、年に2,3度地上に出て好物のアブラナ系の葉を食い荒らすのである。
これは、出ない畑には全く出ず、出るところには手のつけられないほど出るらしいのである。
決め手となる対策もなく、見つけたら獲るしかないのであるが、獲るそばから沸いてきて手がつけられない。
今まで庭とかプランターで大根栽培を楽しんできたが、こんなことはかつて一度もなく、うまい間引き菜を期待していただけにがっかりである。
キャベツ、ブロッコリーにはおそれていた青虫がついてきたので、虫を敵としないと言いながら、然は然りながら、ひとつづつとっては踏んづけるのであった。
さいわい春菊、レタスなどは無事なのがさいわいだが、今日は小松菜のあったところに菠薐草の種を蒔いてきた。
枝さはに乱する風よ萩こぼる
萩もいよいよ終わりを迎えている。
かわって金木犀の香りが届いてもいいころだと思うが、まだその便りは届かない。庭の銀木犀も昨年の思い切った剪定が悪さをしたのか不調のようである。
このじき釣瓶落としに日が暮れてゆくが、同時にまた秋の趣が一気に深まってゆくころでもある。
ニンジンも目立って太りだした。
別院にすすめばゆかし酔芙蓉
芙蓉は中国では蓮のことを指すらしい。
美しさでは蓮にひけをとらないことから「木芙蓉」と呼ばれたとか。
これは漢語に詳しい昭和蝉丸さん(敬称が抜けておりました。失礼しました。)にただしていただかればならないが、芙蓉の中でも酔芙蓉とはなかなか妖艶な語感を伴うものである。朝には白く咲いていたが昼頃には目にもはっきりわかるほど淡い紅をさし夕方にピークを迎える。翌日にはもう花も閉じてすぼまるように眠りいっている。
芙蓉の寺として京の妙蓮寺が有名だが、当地では橘寺が知られている。決して広い境内ではないが、奥の院まですすむと前住職が植えたという見上げるようみごとな酔芙蓉を見ることができる。
橘寺は聖徳太子生誕の地といわれ、飛鳥と斑鳩を往復したという黒駒の像がおかれたりしてよすがをしのぶことができるが、名前の通りここには大きな橘の木が植えられている。寺の名前の由来は、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇に命じられて常世の国の不老長寿の実を持ち帰った橘を植えたことにある。
生臭い歴史の多い飛鳥のなかではひとり超然として異色の存在の輝きを放っている。
伐採を待つ間の櫨の薄紅葉
南都の沿道には南京櫨が多い。
とくに繁殖力も強いようで奈良公園一帯に我が物顔で進出もしている。
さすがに外来種がこれだけ増えては環境保全にも影響があるということで、これら大木の伐採計画がもちあがり、いよいよ景色が一変しそうである。
とくに目立つのが東大寺大仏殿裏の大仏池付近一帯で、空をおおうほどの大木がずらりと並んでいて、紅葉のシーズンになると厚い深紅の葉がこれ見よがしにひろがる。
それはそれで見事なものだが、やはりどこか異国風で南都にはちと毒々しく映るのである。
古来から紅葉は万民に愛されてきた。桜、欅や銀杏の紅葉黄葉もいいが、やはり楓ほどの大きさの紅葉が里や民家の庭などにはよく似合う。
ほめられて色つやましぬ秋茄子
通りがかる人が口々にほめる。
艶、形とも見事にそだてた当の本人も満更ではないようである。
よほど上手に育てたとみえてなかなかの見栄えである。
かけだしの素人ファーマーではなかなかこうはうまく育てられない。
いつかはこんな秋茄子を育てたいものだ。
象の雲浮かべてかろし秋の空
NHKラジオの短歌番組を聴くともなく聞いた。
題は「象」。
抽象的な歌ばかりで共感をおぼえることもできずすぐにスウィッチを切る。
ちょうどハンドルを握っている時だったので、明るい空には白い秋の雲。それが象の鼻に見えなくもなく掲句誕生。
今日は県下でもちょっと知られた整形外科へ。去年からちょっとおかしい右の肩から前腕にかけての痛み。とくに前腕を内転させたときに痛みが走る。最近は歯磨きの運動さえつらい。
まずは原因だけでもと思ったのだが、どうやら先生ははっきりしない。とりあえず前腕のMRIを撮ってみようとなったが結果はさてどうなるやら、来週の楽しみに。