日課

店庭の梁に古巣の商家かな

そろそろかなと待っているのだがまだのようである。

つばめを待っている古巣を見つけた。
ここは県内の古民家を集めて開放してしている公園だ。
国中の商家の土間、つまり戸をくぐってすぐの、言わば店として商品を並べたり客と対面する区画の梁に毎年燕がやって来て巣を営む。昼間は戸を開けているので燕君たちは出入り自由になっていて、ここで子育てをするのである。
茅葺きの古商家に燕が出入りする光景を想像してほしい。
見ているだけで心和むので、この公園へ来ると必ず立ち寄る好きな場所だ。
今月中には来てくれるのではないかと、朝起きたら空を眺める毎日である。

復興五輪どこ行った

閖上のこの日虹かけ春時雨

忘れられないこの日、その時刻現地に虹がかかったという。

あれから九年。
東日本沿岸部の映像を見るたび、復興の道は遠すぎると痛感する。

試されている

落第の夢の目覚めの動悸かな

この時期になるとたまに見ることがある。

卒業して何年もたつのに、単位が足らないと分かって就職すらふいになった夢だ。
そんな夢の中では、いつも母親への申し訳なさで何と告げようかおおいに頭を悩ますのである。
さすがにこの歳になると久しく見ていないが、この新コロナウィルスで予定していた卒業式も入社式も、入学式もなくなるなど、新しく社会や進学へ一歩踏み出そうとする人にとっては、悪夢のような現実の思い出として一生忘れることができない年になるに違いない。
これから先は誰もが予想できない展開になる。
目を大きく見開いて、現実を冷静に見られるかどうか。試されている。

跡を残さず

水紋の揺れて川蜷揺るるごと

春らしい光の強さが加わって、水紋がきらきらと眩しい。

水量が豊かになっったこともあって流れも速く、煌めきがさらにましたようだ。
煌めきの底を確かめると、速い流れに身じろぎもしない川蜷が張り付いているのが見える。水を通した光りが揺れるので、殻自体も揺れるようにみえるが、実際にはうごいていない。通常、蜷が這ったあとは蚯蚓が這ったような跡が見えるものだが、その形跡すら見られず川底の表層の軽い泥などは流されているのだろう。

記憶の中に

教室をぬけて田圃の蜆川

学校のすぐ裏でどういうわけか太った蜆がいっぱい採れた。

遊びのつもりで川に入ってみると、両手ではとても受けきれない量がたちまち体操帽にいっぱいになる。
どうしてあんなところで蜆がいるのか当時はよく考えもしなかったが、今思い出せばこの用水は町の南側を流れる汐入川に通じているからに違いないだろう。
あの田圃はみんなとうに住宅地に化けているかもしれない。あの蜆を食ったのか捨てたのか、それもよく覚えていない今となっては遠い、遠い記憶のなかである。

手を焼く

野遊や球技のあやの片斜面

いつもの公園の激混みを予想して久しぶりに県立民博公園へ。

午後二時頃に着いたら広い駐車場にかろうじて潜り込むスペースがあって公園一周の径をたどる。
谷戸になっている一番奥地が水源となって、そのしみ出す水を集めてちょっとした溜池が整備されている。
望遠レンズをつけたカメラの列が並ぶところを見ると、どうやら目的はカワセミらしい。この時期カップル誕生の時期でいろいろなシーンが見られるからファンが多い。
公園にはあちこちに芝生広場があって、多くの家族連れがめいめいの遊びに興じているが、なにせ丘陵地帯に作られた公園だからすべてが平坦ではなく、複雑な傾斜面となっているのがほとんどである。球技などではこれがまた思わぬ影響を及ぼして、サッカーでは下のチームが不利となるのは必定。蹴り返してもすぐに足もとに転がってくるボールに手を焼くわけだ。

息吹

開園を待つなく開きチューリップ

もう咲き始めているものもあった。

チューリップ祭が予定されている公園だが、ひと月も早く咲き始めた株があって驚かされる。

白木蓮の芽吹き

目を転じると、木蓮の芽がほぐれてきて顔を出し始めているのがをる。
まさに「春の息吹」である。