喜べばしきりに落ちて

探鳥の肩に時雨るる木の実かな
団栗の水漬けるままの雨溜り
水景の石の狭間の木の実かな
団栗のはかまはいまだ枝にあり
禁足の池に木の実の降りにけり

三脚の双眼鏡に立つ人に木の実が降り止まない。

うっかり上を見上げれば顔を叩かれかねないほどの木の実時雨である。
いつもの散歩コースがいつになく楽しい。
小鳥は来るし、花壇は秋の花でいっぱいだし、主役がどこにでもいる。
すっかり実を落とした山梔子の葉の上には枯蟷螂。枝を揺すぶったら戦意示すことなくさっさと植え込みに逃げ込んでしまった。こんな遊びをしていたら、およそ二時間なぞあっという間に過ぎてゆく。
歩数一万はいっただろうと思いきや、ちょっと足りなかった。
足が慣れてきたらもっと距離も稼げるとは思うが。

もやもやがはれると

生駒嶺の霧は霽れたりケーブルカー
霧霽れてあれが暗峠とや

今朝は濃霧。

しかし、もう8時をまわる頃にははれあがって生駒嶺に生き生きとした朝日がさしている。
暗峠も意外に低く見えてきたりして、すぐにたどり着けるのじゃないかと不遜な考えさえもたげてきた。
20分の乗車でいくつか句が生まれたり、霧や靄がぱっと開けると眼前にはいろんなものが新鮮に見えてきて不思議な一日であった。

柴栗

栗大樹竹の侵すを負けてゐず

もう実は落ちてしまったようだ。

電車の窓からいつも見える山栗の大木があって、今年は実がいっぱい成っていた。
背後には伸び放題の竹林が迫り今にも飲み込まれそうだが、なんだか両足を踏ん張って背中で押し返しているようで頼もしくも見える。
あの大きな栗の木の下に行けばいっぱい拾えるだろうと思うが、他人の敷地に勝手に入ることもかなわずいつも見ているばかりである。
栗にはいろんな傍題があって、「虚栗(みなしぐり)」「柴栗(山栗)」「焼栗」「栗拾ひ」などその数を全部並べたら大変なことになりそうである。
最近テレビで知ったのだが、四万十川流域でとんでもなく大きく甘い栗が栽培されているそうだが、いまだ流通するほどの量は生産されず手に入れるのは難しそうである。

いっぽうで、ヨーロッパなどでよく見る焼き栗は山栗サイズであり、これもまたうまそうである。

てのひらに柴栗妻がのこしけり 石田波郷

こんな句が好きである。

幹事の役得も

後を引く悪阻の妻の落花生

ほんとかいなと思う。

しかし、発端は殻付きピーナッツは袋が空になるまで止められない食べ物であると言うこと。
そこから発想して妄想の句誕生となったのであるが。。。。
今日の席題「落花生」に出したのが掲句だが、選外。
幹事の役得で自分の裁量で決められるので、昨日思いついてもしやとも思わずもなかったが。
しかし、兼題で特選ひとつ、並選ひとつは大きな収穫。また、やる気も湧いてくるというものです。

晩秋色濃く

がまずみの粒は熟して薄紅葉

紫式部もすっかり葉を落として実だけになっている。

森はもう晩秋の色を濃くしている。
あの山吹だって茎こそ青いが、葉はうっすら色づいている。
全体のトーンも色がつき始めて冬隣の様相さえ帯びてきた。

今生の

気に入りのダリアの前に自撮りする

ぽんぽん咲きもあったり、大柄でなかなか豪勢な花である。

そのダリアの園を縫って介護士が寄り添うように老人を案内している。
多くの人は車椅子で、自分の足では歩けないような人が多いので一人につき一人以上の介護士がついている。
「きれいだね」「どの色が好き?」などかける言葉に淀みもなく、認知症などを煩っているのではないかと思える、言葉の少ない老人にしきりにコンタクトを取ろうとしているのが印象的だった。
好きな花を尋ねてはその前で写真を撮ってあげているのをみるにつけ、不謹慎なことであるが、もしかするとこの人にとってこれが今生のダリアとなるかもしれないと思うのであったが、もちろん当のご本人も誰も知るよしもない。
最近は自分の写真など全く撮ってないし、遺影用の写真のこともそろそろ意識して、自撮りなんていうものを考えてみようかしらん。