からからと

柿落葉蹴って散歩へ犬逸る

柿を観察していて分かったこと。

「結果枝は結果母枝より早く紅葉し、早く落葉する」
実の生らなかった枝の葉は、先に落ちた葉が一様に茶色に変化するころにようやく落ちるようだ。

落ち葉は窯変さながらに、葉ごとに微妙な模様な描きながら、しまいには同じような茶というか、錆色というか土に同化していく。
もともと厚い葉なので、落ち葉が積もると意外に嵩があり、手で触れたり足で踏んだりするときの乾いた音が耳に心地よい。
柿落葉を句に詠むには、このような、色や模様、嵩、音、手触りなど五感の要素をふんだんに含むのでイメージが膨らみやすい部類に属するかもしれない。

佳句は、犬がリードを強く引っ張って散歩へ駆け出そうとする様子を詠んでみた。荒い息を掃きながら、勢いよく葉を蹴りだす音が聞こえるだろうか。猟犬なら、もっと面白いのだが黄が重なるので

紅葉はピーク

黄落や一世風靡の大団地

街はいま何処へ行っても素晴らしい紅葉に包まれている。

周囲の山を仰げば雑木紅葉、役所や公園など公的なスペースはこれ以上ないというくらい見事に彩られて、通るたびに歓声をあげてしまう。まして、紅葉を町の木とする地元には楓、紅葉の類いが多く植えられているので、町役場や図書館、体育館が集中している大和川沿いは真っ赤っか。対岸から見ると、錦模様が信貴山にむけて燃え広がるようだ。
とくに見事だったのは、隣町の大きな団地の紅葉で、おそらくここは県下でも最も古い建築だと思われ、街路樹はもちろん、棟の周りの紅葉も4階建てのアパートの屋上に届かんばかりに大きく成長している。
付近のスーパーが次々撤退し、残った商店もまばらで人影もあまり見られないだけに、際だった紅蓮の紅葉がひときわ目に沁むのだった。

日陰の身分

石蕗鞠と咲いて南の陽の恵み
鞠と咲くひなたの石蕗のあてやかに

石蕗の花にはどうしても日陰のイメージがつきまとう。

事実目にするのはほとんどのケースが、樹木の根占、玄関の下植えなどであるからだ。
たしかに、高さにしてもせいぜいが30センチほどで、花の数もそう多くはないのが普通。
ところがである。日当たりのいい場所に置いた石蕗は、身長が倍ほどにもなり、一本の茎にいっぱいの花をつけるのを見ることができた。
良く育つものには、オオデマリのように花が鞠咲きとなるものがあり、目をみはるものがあった。
考えてみれば、もともと葉の色が鮮明な緑であることに加え、花の黄も原色に近いほど鮮やかなので、日向に似合うのは自然なことであり、石蕗にしてみれば今までの扱いはあまりにも不当だと文句の一つも言いたくなるだろう。

日陰の身分から解放された新しい句も詠まなければと思う。
う〜ん、二句目の下五が浮かばない。これじゃないんだな。
つややか、あでやか、、、、あっけらかん?
探そう、言葉を。

汝が鳴けば

波頭波間漂ひ磯千鳥
波しぶき届かぬ溜り磯千鳥

キヨノリ君のブログ「百人一首 談話室」が再開されて、ブランクもものかは、すこぶる快調である。

毎週一首をとりあげて、その作者や詠まれた時代背景、源氏物語との縁を織りなす物語は読むだけでも十分楽しい。
今日は、今週の78番歌「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」(源兼昌)に触発されて、「千鳥」に挑戦してみた。

ところで、「千鳥」というのは知っているようで実はよく知らない。
厳密に捉えると、渡りをする小さな水鳥で、後脚が発達しているので浜や潟などを素早く走るのが特徴をもつものを言うらしい。一方で広く捉えると、シギやケリなど蹼を持たない水鳥を言うようでもあるし、さらには文字通り「千」が示すようにいろんな鳥という意味もあるようである。
78番歌は、淡路、明石海峡を行き来する鳥の声と言うのだからその種類を限定して姿を見せる必要はなく、いろんな水鳥たちという意味に解釈したほうが理屈臭さが抜けていいと思われる。

春には「百千鳥」と言って、いろいろ囀りをみせる鳥たちを美称する季語もある。他にも歳時記には四季それぞれの鳥が取り上げられているので、積極的に詠むようにしたいものだ。

たそがれ

黄昏れて街は黄落待つばかり
黄落の路はひたすら一直線

銀杏は思った以上に長い時間をかけて染まっていくものらしい。

立川の昭和記念公園は素晴らしい黃葉のようだ。今日明日はたくさんの人が押しかけるだろう。
当地でもう一月以上観察しているが、黄落どころか完璧な黃葉でさえまだのようである。
この分でいくと今年は来週あたりからであろうか。
「黄落」は「銀杏落葉」の傍題であることからしても、同じ黃葉する欅、櫟を従えてのダントツの代表である。

黄昏の域に達した身に黄落を重ね見る日々。

ハマの酉の市へ

留守番を客にまかせて酉の市

「ちょっと行ってくるから留守番しててね」

スナックのママがカウンターに客を置いたまま、さっさと熊手を求めに出て行く。
馴染みというか、贔屓の客がついていったので、きっとご祝儀もはずむんだろう。
残された客は水割りを自分で作っては飲み、自分で端末を操作してはカラオケのマイクを握る。
それにしても、このまま店をほったらかして帰ってしまうわけにもいかないし、いつまでこんなことをしてればいいんだろう。

外はどんどん冷えてきたようだし、水割りもどんどん濃くなってきた。

散りようが命

掃かぬまま山茶花風の運ぶなし

山茶花が咲き始めたようだ。

とくに香りが強いわけでもなく、木もあまり大きくは伸びないせいか、椿に比べれば地味とは言えるが、何と言ってもこの花の特徴は、長い期間にわたって咲いては散ってを繰り返すことにある。同時に、株の根元に散り敷いた花びらさえも愛でることができる。
そういう意味では、散ったからと言ってすぐに掃かないことも肝要で、散り積もるまでしばらく放置しておくのがいい。
強風が吹かないかぎり飛散することもないので、お隣への迷惑もあまり心配ないかもしれない。

花は花として、散った花びらの風情がさらにいい。
二年前に大覚寺の庭で見た山茶花の散り様は、今もあざやかに思い出すことができる。