梅雨晴れ間

ハンカチのポケットといふポケットに

ハンカチが何枚あっても足りぬ。

そう予測してあちこちのポケットにハンカチをしのばせているのだが。
案の定、昼頃にはもう汗みどろのしわくちゃなものばかりに。
ハンカチではなく、タオルを持ってくれば良かったと悔やんでも後の祭り。
この時分の吟行はハンカチなどで気取ってはいられないということだ。

熨斗の始まり

干物吊る路地梅雨湿り潮じめり

鳥羽一泊が明けると自由解散なので、海女の浦へ行ってみることに。

まずは、国崎(くざき)の海士潜女神社(あまかづきめじんじゃ)へ。
その昔、この地を訪れた倭姫命に鮑を献上したところ、これが大変美味であると以降伊勢神宮に献納するように言われた。以来、日持ちがするように熨斗鮑にして奉納してきた土地で、神社のご神体は海女の始祖である。この熨斗鮑が「のし」の原型である。迷いながら浦の小高いところにようやく見つけたが、意外に小さな神社。人は誰も居ず、写真に撮っただけで失礼した。

志摩には海女で有名な浦はいくつかあるが、相差(おうさつ)には「海女資料館」があるらしいので、さらに半島を南下する。
資料館で海女の使う漁具などを見たあと、町を歩くつもりだったが、この日は朝から海が全く見えないほど霧がでて、ただでさえ梅雨の湿度がうっとおしいのに、潮を含んだような霧のなかの湿度はただごとではなく、吟行をあきらめて半島の先端。大王崎灯台まで行ってみようと決めた。

最近G7が開かれた場所ではないかと思えるような立派なホテルに感心しながら、灯台の先端だけが見える場所にようやく到着したが、ここからは車は入れず徒歩で行けという。何しろすごい湿度だし、500メートルほどもあろうか、上りの道などとても歩く気も失せそのままUターンせざるを得なかった。
干物を売る店もあり、あれだけ好きなアジの干物も並べられていたが、車から降りる気さえ起きなかったのはどうしたことだろう。

伊賀の夏の花と言えば

伊賀越のおぐらき峠合歓の花

津から国道163号線の長野峠を経て伊賀に出た。

伊勢の斎宮歴史博物館に立ち寄ったので、下道をゆくついでに今まで走ったことのない道を抜けようと思ったからだ。
この道路は「伊賀街道」と呼ばれ、藤堂藩が伊賀に支藩をつくったときに整備された全長50キロの道だという。
峠の名前にあるように、峠の手前に長野という地区があり、ここはかつて安濃郡長野村と呼ばれ、その後合併して安芸郡美里村、そして昭和の大合併で津市に編入された。
昭和30年代の頃、交通手段も限られていた頃は、津の市街地に出るのに一時間くらいかかる山の奥地という感じだった。冬に雪が降るなどすれば出てこれない日もあるくらいで、子供ながらどんなに不便な処なんだろうと思っていた。
峠は平野と盆地を分ける分水嶺みたいなもので、平野に流れれば雲出川、盆地に流れれば木津川に合流する支流という具合だ。

今では、峠に替わってトンネルが通じているが、これを抜けると渓流沿いの細い九十九折の道が続く。雰囲気からすると夕にでも通れば蛍でも出てきそうなものであるが、もともと交通量が少ないので、夜などはちょっと怖いかもしれない。
注意しながら下ってゆくと、渓谷に沿って今は合歓の花が盛りであった。木洩れ日のさす花は眩しいように明るく、道案内のように点々と続くのであった。
この渓谷は服部川と呼ばれるので、あの忍者の半蔵ともゆかりがある地域なのかも知れない。

盆地に出て名阪道に入ると、ここもこの時期の定番合歓の花が通りかかる大型トラックの風圧に揺れる、揺れる。
伊賀越えの今は合歓の花が旬なのである。

ディーエヌエイということ

友鮎の幟褪せたり参勤道

鳥羽へ、一度走ってみたかった伊勢本街道をようやく走破することができた。

県境では高見山、そして台高山地の山容に圧倒され、恐くなるほどだった。中央構造線と言われる、地球の割れ目のような断層が走っているところだからだろうか、目の前に峙つ姿の山と山とがつくる谷も深い。立山のロープウェイでも感じたことだが、山には抗しがたい神が宿るというのは本当だと思う。
この高見山を源流とする櫛田川の清流に沿うように下って松阪に抜けるのが和歌山街道で、紀州の殿様が参勤交代で通る道だったと言われる。波瀬地区には中央構造線が露顕している「月出」という観測所の看板もあった。調べるとヤワな車では上り下りが危険とあるので寄り道を諦めたが、一度は見てみたい現場である。
次に大きな集落が出たが、飯高の道の駅のある一帯であった。ここの蕎麦は注文してから出てくるのに時間がかかったが、コシが強くてなかなかうまい蕎麦だった。
町の案内図に小津安二郎資料館というのに目が止まったので、寄ってみることにした。
松阪五大豪商の次男で、10代の多感の頃を松阪で過ごしたというのを初めて知ったが、その最後の一年間をここ飯高の中学で代用教員していたらしい。
後に、その教え子たちが発起人となって「飯高オーヅの会」をおこし、小津を偲ぶ資料の数々を展示した資料館であった。館内には親切丁寧に説明してくださるボランティアの方もいて、なかなか興味深い陳列にしばらく時間のたつのも忘れるほどだった。

会社時代の友人にH君がいて、大事にしていた古い小津の本を借りたことを思い出し、説明の方に、もしかして小津の所縁で「H」という人はいないかと尋ねると、確かに小津組の一人にHと言う人がいて小津の片腕であったこと、その人の書いた本もあると教えてくれた。
H君は今某大学で学長をしているが、美術・芸術論の専門家にして素晴らしいエッセイをものにするほかアーティストとしても大変優れた人であったので、それはまさにそうした血が脈々と流れていたのだなとあらためて「才能」というものの不思議を思わざるを得なかった。
追補)実はこの部分が大変な勘違いでした。H君に確かめると、同じ発音でも字が違うと言われました。う~ん、なんという早合点、そして迂闊さ。それでも、H君の豊かな感性、人間性には一点もくもりない素晴らしいことは間違いありません。

子供たちもお世話になった

汗疹除け刷いては稚児の化粧めく

少し動いただけで汗が吹き出してくる。

とうとう汗疹が出来たらしく、ますます鬱陶しい日々だ。
最近の研究では、赤ちゃんのパウダーは要注意ということらしいが、この歳になればなに関係あるもんかとばかり、まさに白塗り状態。少しはべたつき感がなくなって助かっている。

銘柄は昔から和光堂。新しい缶入りパウダーも、一夏はもつだろうかといういうくらい大盤振る舞い。洗面所を粉だらけにしては叱られる毎日である。

残ったものどうしの会

一人また逢へなくなりて星今宵

今日は高校同窓生の古稀の会なので予約投稿である。

われらも卒業後半世紀を経ているわけだから、鬼籍に入られる方も年々増してくる。
総勢550名いた学年なので、なかなか全員の消息を知る機会も少なく、こういった同窓の集まりは近況を話し合ったり、消息を確かめ合ったりするまたとないチャンスである。
おそらく、今日も二度と逢えなくなった人の話で座が囲まれることだろう。

生きているものどうし、束の間の生を確かめる場でもあるのだ。

元気の証

廃業の軒に朝顔登りゆく

奈良町吟行とくると昼は蕎麦屋が定番だった。

それが、後継者不足らしく店をたたんでしまわれて、今では放浪の飯屋探しだ。
昨日もその前を通りかかったら、店頭に朝顔の鉢を並べて通りがかりの人を楽しませていた。
どうやら、主あるいは女将さんはまだ健在らしい。